第四十七話:助かった人と、治らない上着
安全を確かめた道を戻り、小さな街道の待避所へ入った。
石壁と屋根があるだけの場所だった。
それでも背中の向こうに何も来ないと思えるだけで、座るのが楽になった。
シェリルは外で連絡を取っている。
イツモアは僕のそばから離れず、身体の状態を確かめていた。
運び手の男性が入口で人数を数えた。
一人ずつ顔を見て、名前を呼ぶ。
最後の返事があった時、彼は壁へ手をついた。
声を掛けられた人が、また別の人の顔を確かめる。
運び手の数えた人数と、商人が覚えていた人数を照らし合わせていた。騒ぎの途中で合流した人もいるので、最初から一緒だった一行だけを数えれば済む訳ではない。
僕は入口から外を見た。
道の先には御車があった。銀色の狼たちは姿勢を低くして止まっている。外装には土が飛んでいたが、大きく壊れたところは見えなかった。
あの中には僕の紙がある。
イツモアの香草も、シェリルの苗も。
そんな物の事を考える余裕が戻ってきた自分に、少し驚いた。
昼間は全部置いて逃げてもいいと思った。今は無事でよかったと思う。
都合がいいが、それも本当だった。
荷車に残っていた人は足を傷めていたが、話はできた。
額に布を当てている人もいる。
無傷ではなかった。だが返事は全員からあった。
僕はそこでようやく、肩を下ろした。
レプス族の商人が前へ来た。
両手に、汚れた小さな帳面を握っている。
「ありがとうございました」
僕は首を振った。
何と言えばいいのか分からない。
「僕は、紐を切っただけで」
「その紐が切れなくて、出られなかったんです」
彼女はそう言って頭を下げた。
僕はそれ以上何も言えず、自分の右手を見た。
細い切れ目。
紙の端。
布に残った血。
あれが、あの人の腰へ巻きついていた紐につながった。
運び手も礼を言ってくれた。
僕は逆に、肩を引いて助けてもらった事を伝えた。
彼は少しだけ笑い、入口の方を見た。
「あんたが走ってる間に、こっちも必死だったよ」
誰か一人が全部助けた訳ではなかった。
僕が見ていない間も、みんな動いていたのだ。
しばらくしてシェリルが戻った。
騎士団へ連絡がつき、付近の部隊がこちらへ向かっているという。
彼女は僕の前へしゃがみ、もう一度傷のあった場所を確かめた。
上着を脱ぐと裂け目が大きく開いた。
中の服も切れている。
身体の方には赤い線がわずかに残っているだけだった。
「……服は治らないんだね」
口にしてから、馬鹿な事を言ったと思った。
イツモアは布を握ったまま黙っていた。
僕だけ修理保証に入っていて、付属品は対象外。
そんな冗談も浮かんだが、言えなかった。
彼女の目が服の血へ向いていたからだ。
イツモアは水を含ませた布で汚れを落としていた。
僕の腕を持つ時は力が入らないように気をつけ、砂がついた場所では手を止めて確かめる。
左腕には、木片に擦られた跡がまだ薄く残っていた。
そこも少しずつ目立たなくなっていく。
彼女はその変化を見ていた。
安心するだけの顔ではなかった。治る速さに助けられながら、その速さをどう受け止めればいいか迷っているように見えた。
僕も同じだった。
身体が勝手にしてくれる事なのに、何を使っているのか分からない。
傷がなくなれば、何も起きなかった顔をできる。
けれど服はそうしてくれない。裂け目は僕の記憶より正直だった。
「イツ」
呼ぶと、ようやく顔が上がった。
「ごめん。怖かったよね」
イツモアはすぐには答えなかった。
一度唇を結び、それから上着を膝へ広げる。
「……お戻りくださって、よかったです」
声が少し揺れた。
僕は自分の手を重ねようとして止めた。
泥と血がついている。
彼女はその手を先に取った。
汚れを気にせず、少しだけ握った。
シェリルが僕の隣へ座る。
「助かった人がいた事は、ちゃんと覚えていていいわ。でも、次も同じようにできるとは考えないでね」
僕は頷いた。
今回は自分でも思う。
あの岩の後ろへ行けば逃げられると思った。
実際には転んだし、石も当たった。予定通りだった部分の方が少ない。
「怖くて、途中から何を考えてたのか分からない」
言うとシェリルは話の続きを待った。
だから、分かるところだけ話した。
敵の追い方が違った事。
魔法のような線がほどけた事。
それでも石は当たった事。
彼女は一つずつ聞き、言葉を補わずに記録した。
その横でイツモアが上着へ針を通し始めた。
裂けた端が少しずつ近づく。
僕の傷より、ずっとゆっくりだった。
糸が引かれるたび、裏側の布が小さく縮む。
イツモアは一度縫ったところを確かめ、引きつれた部分をほどいてやり直した。
「そこまで綺麗じゃなくても、大丈夫だよ」
僕が言うと彼女は顔を上げた。
「動いた時に擦れますので。ここだけ、もう少し」
その説明に僕は頷いた。
形を戻すだけではない。着た時に痛くないようにしてくれている。
シェリルが袖の別の裂け目へ目を落とした。
そこから細い木片を取り除き、布の上へ置く。
指より短い破片だった。
これが刺さったのか。
手に取ろうとすると、彼女が先に小さな包みへ収めた。
「後で見るなら、一緒に。今は手を休めて」
声は柔らかかった。
僕は伸ばしかけた手を膝へ戻した。
調べたい気持ちはあった。
それと同じくらい、もう何も見たくない気持ちもあった。
両方あるのがおかしいのかと思ったが、二人は急いでどちらかに決めさせようとはしなかった。
外では商人が濡れた帳面を広げていた。
商品が全部なくなった訳ではない。それでも、無事だった数を確かめる声は小さい。
助かった。
それは本当だ。
だからよかった、と言い切ったらこぼれてしまうものが、まだここには沢山あった。
夕方、待避所の外で小さな火が焚かれた。
運び手が鍋を出し、商人が無事だった食料を分けた。
銀髪の青年は水を運ぶ。肩の布が汚れているのに、気にしていないようだった。
イツモアが香草の包みを開けた。
ナギで分けてもらった葉だ。
鍋へ入ると、知っている匂いがした。
昨日も嗅いだ。
今朝も嗅いだ。
それだけの事なのに、少し息がしやすくなった。
僕は渡された器を持った。
手はもうほとんど震えていない。
一口飲む。
温かい。
けれど、その先がよく分からなかった。
外で枝が折れる音がして、思わず振り返る。
運び手が薪を短くしていただけだった。
イツモアは何も言わず、自分の器にも汁を入れた。
僕の隣へ座り、小さく息を吹きかける。
「少し香りを弱くしました。お疲れの時には、その方が召し上がりやすいかと思いまして」
僕は頷いた。
もう一口飲む。
今度は葉の香りが分かった。
肉の味もする。
シェリルが、リネアの苗は今頃どうしているかしらと話した。
僕は勇者より魔王の方が元気だった事を思い出す。
「あいつ、日差しに負けてたからね」
言ったら少し笑えた。
「カイ様が戻られる頃には、大きくなっておりますわ」
イツモアがそう言う。
僕は器を見たまま頷いた。
戻る。
またあそこへ行く。
そういう先の話をしてもいいのだ。
「……美味しい」
ようやく言うと、イツモアの目元が緩んだ。
昼間、上着を見ていた時とは違う顔になった。
その顔を見て、もう一口飲めた。
空になった器を膝へ置くと、底に小さな葉が残っていた。
イツモアが器を受け取ろうとして、僕の手がまだ添えられているのを見て待つ。
僕は指を離し、ありがとうと言った。
向かいでシェリルも飲み終えていた。
彼女は火の方へ顔を向け、飛んだ小さな火の粉を眺めている。
三人とも、しばらく次の話を始めなかった。
何か話さないといけない気はしなかった。
黙っていても隣にいてくれる。それが今は助かった。
お読みいただきありがとうございます。
続く第48話「眠れない夜と、残された名前」は、本日10月26日20時に公開予定です。
戦いを終えたカイたちの夜を、引き続き見届けていただければ嬉しいです。




