第四十六話:一本の紐と、逃げる為の数秒
「どこが引っ掛かってるんですか!」
近づいて尋ねると、運び手が覆い布の下を指した。
横倒しになった荷物の留め具が曲がり、そこへ紐が食い込んでいる。
布の下にいたのは若い男性だった。
足首が荷台の縁へ挟まっているのではない。荷物ごと滑った覆い布に腰と脚を巻き込まれ、留め具に繋がる紐が逃げる動きを止めていた。
運び手は車体がさらに傾かないよう、肩を下へ入れていた。
銀髪の青年が反対側から支える。車輪の下に入れた石が少しずつ沈んでいる。
この状態で二人に手を離せとは言えない。
僕はまず金具を引いた。
動かない。
指先へ意識を集める。
痛みが走り、赤い縁が出た。
金具へ当てる。
滑る。
駄目だ。
慌てて手を引いた。刃の先が歪んでいる。
こんなものを切れると、誰が言った。
僕は紐を見直した。
金具を壊さなくても、その周りを切ればいい。
「ここ、少しだけ張れますか」
運び手は肩で車体を支えたまま、空いた手で布の端を引いた。
細い紐が浮く。
膝をつき、左手で布のたるみを押さえた。
刃の向こうに人の身体がある。勢いよく切ればいいというものではない。
朝は板の上だった。
誰も動かず、待ってくれた。
今は地面が揺れ、息が耳の中でうるさかった。
指先の赤い縁も細かく震える。
落ち着け。
そんな便利な命令で落ち着けるなら苦労しない。
それでも、紐へ目を近づけるのをやめて一度息を吐いた。
一本ずつ。
全部を一気に切ろうとしない。
そこへ刃を当て、短く動かした。
一本。
まだ引けない。
もう一本。
最後の繊維が切れると布が緩んだ。
銀髪の青年が車体を少し持ち上げ、その隙に運び手が男性を引き出した。青年は車体をゆっくり下ろすと、男性の反対側へ回って肩を支えた。
「歩ける。大丈夫だ」
その声を聞いて、僕も息を吐いた。
切れた。
間に合った。
指先が熱い。
刃を保つのをやめると、血が手の甲へ流れた。
本日のお仕事、完了です。
退勤してください、血刃様。
頭の中でそう言った時、地面がまた揺れた。
木の間から長い脚が出た。
イツモアに足止めされた一体が向きを変え、もう一体と共に岩場へ近づいてくる。
銀髪の青年が動く。
巨体の上の突起がそちらを向いた。
僕も同じ方向へ走りかけた。
途中で荷物を跨ぐ。
突起は僕を通り過ぎ、青年の方へ向き直った。
……今、見なかった?
そんな場合ではない。
でも違った。
青年が岩の裏へ入っても、突起はその先を追っている。
僕が道を横切った時には一度止まり、それから遅れてこちらへ向いた。
大きな脚が上がった。
僕は伏せた。
背中の上を風が通り、道へ土が弾けた。
見えていない訳ではない。
ちゃんと狙ってくる。
でも、何かがずれる。
紙の角。
僕が触れた時だけ落ちた加護。
それと同じ事が起きているのかもしれない。
けれど試して確かめる余裕はない。目の前の巨体は、浮かせた紙のように待ってくれなかった。
避難者の最後尾で、助け出した男性が足を引きずっている。
青年が肩を貸しても、急には速くならない。
道の幅は狭かった。後ろから押せば二人とも倒れてしまう。
僕は周囲を見た。
走れる場所がある。人のいない方に。
ただ、それだけだった。
うまくやれば勝てると思ったのではない。
何もしないで見ている間にも脚が下りてくる。
その時間の短さに、背中を押された。
シェリルの言葉が頭の中を通り過ぎた。
「こっち!」
僕は声を上げた。
思ったより細い声だった。拾った石を外装へ投げると、硬い音がした。
突起が向く。
もう一体の脚も止まる。
二体とも、こちらを見た。
しまったと思った。
成功したのに、しまったと思った。
岩壁の上でイツモアの光が強くなった。
彼女がこちらへ顔を向ける。その口が僕の名を呼ぶ形になった。
分かっている。
戻るべきだ。
ただ、僕が避難者と同じ方へ戻れば、二体の突起もそちらを向く。
今、僕へ向いたものを引き連れて戻るのはまずい。
右には倒れた木と大きな岩。
その向こうには人がいない。
あそこへ行く。
行って、隠れる。
敵を倒す方法ではない。
今すぐできそうな逃げ方を、一つだけ選んだ。
僕は岩の陰へ走った。
その先へ回れば、避難している人たちとは逆側へ出る。
あそこまで。
それ以上は考えない。
走り始めた僕の背後で、荷車が潰れる音がした。
石が飛んできた。
避けたつもりだった。
左の脇腹へ熱いものが触れ、次の瞬間に息が止まった。
足がもつれる。
地面へ手をついた。
痛い。
上着の横が裂けている。
血が指へついた。
見ている場合ではないのに見てしまった。
皮膚が寄っている。傷が、動いている。
治っている。
でも痛い。
全然、大丈夫ではない。
頭の上で金属が鳴った。
僕は立とうとして滑り、岩の裏へ転がり込んだ。
青白い線が地面を走る。
足首の辺りで何かが引っ掛かった感覚がした。すぐにほどけた。
けれど、その直後に落ちてきた石は消えなかった。
足のすぐ横へ突き刺さった。
魔法の邪魔ができても、物は残る。
朝の箱が頭へ浮かぶ。
分かってる。
分かってるから、今はもう少し軽い物にしてくれ。
岩の向こうに人影が見えた。
商人が布を振っている。銀髪の青年と運び手は、助けた人を抱えて奥へ進んでいた。
もう少し。
あの人たちが曲がり角を越えるまで。
僕は右手へ目を落とした。
小さな赤い筋がついているだけだ。
この指で、あの脚をどうにかできるはずがない。
「……走るぞ」
誰へ言ったのか分からない。
自分にか、けっちゃんにか。
岩から出て、倒れた木の向こうへ移る。
巨体の突起が遅れて動いた。
一瞬、外れた。
その一瞬だけでよかった。
僕は木の幹を越えようとして膝をぶつけ、向こう側へ落ちた。
かっこ悪い。
痛い。
息ができない。
背中側で木が砕けた。
肩へ何かが擦れた。
上着の袖が引かれ、左腕に細い熱が走る。傷を見なくても濡れたのが分かった。
脇腹とは別の場所だ。
一つ治ったからといって、次が来ない訳ではない。
僕は腕を胸へ寄せて身体を縮めた。
すぐ上の幹に金属の脚が食い込み、木の繊維が毛羽立って裂けていく。
突起が僕を探すように左右へ動く。
幹の裏にいる間は、向きが定まらない。
でも脚は近かった。
正確に見つけなくても、この辺りをまとめて踏めばいい。そんな大きさだった。
イツモアの声が聞こえた。
言葉までは分からない。
青白い光が逃げ道を塞いだ。だが手に触れた部分が乱れ、そこから腕を引き抜けた。
その先には土がある。
普通の土だ。助かったと思う間もなく、足が滑った。
僕は膝で身体を支え、木の根を掴んだ。
泣きたいくらい息が苦しい。まだ一分も経っていないのかもしれないのに、昨日から走っているようだった。
もう動けないと思った時、頭上へ白い光が走った。
鉄骸の前面が大きく開いた。
次の光が奥へ入る。
巨体が止まるより先に、隣の一体が横へ倒れた。
装甲の下から嫌な音がして、脚が内側へ折れる。
二つの大きな影が、僕から離れる方向へ崩れた。
風が来る。
その前へ薄い光が広がり、土と破片が左右へ流れた。
「カイ様!」
イツモアの声がした。
返事をしようとした。
喉がうまく動かない。
彼女が膝をつき、僕の肩を支えた。
いつもの香りがした。その瞬間、手が震え始める。
シェリルもそばへ来ていた。
僕の顔を見てから裂けた上着へ視線を落とす。
「息を吐いて。ゆっくりでいいわ」
吸えと言われるより楽だった。
言われた通りにすると、少しだけ次の息が入った。
イツモアが僕の手を包んでいる。
強く握っていないのに、離れなかった。
「ほかの、人は」
ようやく出た声は掠れていた。
「避難できたわ。今はあなたを診せて」
僕は頷いた。
その言葉を信じたかった。
遠くで誰かが呼び合っている。
木の燃えるような匂い。冷たい土。上着の中へ入った砂。
全部が急に近くなった。
助かった。
そう分かった途端、膝まで震えた。
お読みいただきありがとうございます。
紙一枚から始まった小さな血刃。
カイが重ねた練習が、今回の行動につながりました。
続く第47話は「助かった人と、治らない上着」です。




