第四十四話:止まった荷車と、動く森
昼を少し過ぎた頃、前方から荷車が戻ってきた。
午前中は晴れていた空に薄い雲が広がっていた。
道の右側は木の多い斜面。左側には低い岩の連なりがあり、その向こうへ細い沢が流れている。街道はその間を緩やかに曲がっていた。
僕は窓から手を引き、袖口を直した。
朝の練習で痛んだ指はもう動く。ただ、先を細く保とうとした時の疲れは少し覚えていた。何もしていない今も指先へ力を込めてしまい、気づいて手を開く。
「今日はもう出しませんよ、血刃様」
小声で告げると、イツモアがこちらを見た。
聞こえていたらしい。僕は窓の外を指し、何でもないと笑った。
御車の前方には昨夜の運び手たちの荷車が見えていた。
こちらの方が速いが、この曲がりくねった道で無理に追い越す必要はない。同じ方向へ進む間は、適度に距離を取ってついていく事になっている。
昨日知り合っただけなのに、あの荷台を見ると少し安心する。
箱の中身も、届ける先の話も知っているからだろうか。
引き返してきた荷車は二台続いていた。
御車が止まると、その先頭の男が窓へ顔を寄せた。
「この先はやめた方がいい。森の方で何か崩れてる」
橋が落ちたのか尋ねると、そうではないらしい。
地面が揺れ、木が倒れた。その先へ行った者が引き返してきたので、自分たちも戻る事にしたという。
シェリルは男に、最後に異変を見た場所と、そこに人が残っていたかを尋ねた。
男は背後へ腕を伸ばし、曲がり角が二つあると説明する。自分より先へ進んでいた荷車までは分からないという。
僕は先行する荷車の幌を探した。
まだ見える。曲がり角の手前で速度を落としていた。
シェリルが前方へ合図を送る。
銀色の狼たちが脚の形をした部分を沈め、御車が道端へ寄った。彼女の手元には道の線が浮かび、いくつかの表示が重なっていく。
「戻る道は空いているわ。まず、ここから離れましょう」
落ち着いた声に僕も頷いた。
確かめる為に危ない場所へ行く必要はない。図鑑に新しい項目を増やすより、生存記録を一日伸ばす方が大切だ。
シェリルが場所を確かめている間、僕は道の先を見た。
曲がり角の向こうは木々に隠れている。
イツモアがいつの間にか窓から離れていた。
僕の隣へ座り直しただけなのに、肩の向きが違う。すぐ立てるような姿勢だった。
「カイ様。少しお待ちくださいませ」
声は穏やかだった。
だからこそ、普段との違いが気になった。
御車の前を荷車が通り過ぎる。
荷台の金属の器が小さく鳴った。
次に、僕達の足元からも音がした。
止まっている。
御車は浮いている。
それでも道端の小石が震えていた。
森の奥で木が傾いた。
一本ではない。枝が絡まり、隣の木を巻き込みながら倒れていく。
土の匂いが窓から入り込んだ。
木の根が剥がれた匂いだった。谷の風とは違う、生ぬるい空気が押し寄せてくる。
鳥に似た生き物が一斉に飛び立った。
翼が葉を打つ音が重なり、その下から乾いた破裂音がした。幹が折れた音だと分かるまで少し時間がかかった。
その向こうに屋根のような物が見えた。
……屋根?
黒ずんだ曲面。つぎはぎの金属板。
それが木々より高い位置をゆっくり移動していた。
長い脚が上がる。
脚の付け根に見えたものは歯車ではなかった。濡れた筋の束が縮み、装甲の隙間から青白い液体が垂れる。
脚の先で何枚もの板が開いた。地面へ突き刺さると閉じ、木の根ごと土を掴む。
腹の底へ音が響いた。
装甲の上には塔のような突起が幾つも並んでいる。
一つがこちらへ向いた。顔も目もないのに、見られた気がした。
継ぎ目で枝が砕け、黒い液が滴った。硬い外装の下で何かが膨らんだり縮んだりしている。
一番近い木の高さを越えている。
十メートルどころではない場所もありそうだった。車でも獣でもない。建物が、間違った方法で歩いている。
僕は唾を飲んだ。
喉だけがやけに乾いていた。
知っている。
会議室で見た。
でも、あれは映像だった。
「鉄骸……」
僕の声にシェリルが頷く。
手元の板へ指を滑らせた彼女の顔から、先ほどまでの柔らかな笑みが消えていた。
別の場所でも木が倒れた。
さらに右手の斜面で土煙が上がる。
一体ではない。
「六体。イツ、街道側をお願い」
イツモアは短く返事をした。
僕へ向き直り、右手を取る。
「御車を降ります。足元にお気をつけください」
言われた通りに動いた。
膝が少し変だった。階段が高くなった訳でもないのに、降りる場所を一度見直す。
前方には昨日の荷車がいた。
運び手が懸命に向きを変えている。レプス族の商人が道へ落ちた包みを拾おうとしていた。
「荷物は後! 人を先にこちらへ!」
シェリルの声が街道を通った。
僕も手を振った。
大きく振ったつもりだったが、肘がうまく伸びない。
「あっち、岩の陰に! あっちです!」
同じ事を二回言った。
それでも商人はこちらを見て走り出した。
イツモアが僕達を低い岩壁の裏へ導く。
道端の岩壁には切れ目があり、人が一人ずつ通れる古い作業道が奥へ伸びていた。
先ほど通った道へ戻るには、荷車を転回させる必要がある。人だけなら、この脇道から一つ手前の曲がり角へ抜けられるらしい。
御車は銀色の狼に引かれてさらに後方へ退く。
戻りの荷車も道を空けようと懸命に動いていた。逃げ道まで車体で塞いでしまったら、人も通れなくなる。
「この岩の内側を。走れない方を先に」
イツモアは足元を指し、浮いた石を脇へ払った。
僕も商人の背中を支える。彼女は帳面を胸へ抱き、耳を伏せたまま何度も後ろを見ていた。
「こっちです。足元、段差があります」
僕の声も落ち着いてはいなかった。
それでも目の前の段差を教えるくらいならできる。
岩の切れ目の先で誰かが助けを呼んだ。
昨日の荷車が道端へ傾いている。転回しようとした時に車輪が崩れた縁へ乗ったらしい。銀髪の青年が荷台を支え、運び手が下を覗き込んでいた。
全員が、言われたからといってすぐ逃げられる訳ではなかった。
その手前でシェリルが振り返った。
「カイ。この道を戻って。イツの示した場所から出ないでね」
僕は頷いた。
戦いたいなんて、今は少しも思わなかった。
イツモアは最後に逃げる人の背中を確かめ、岩壁の外へ出た。
僕のそばにいた時の柔らかな歩き方ではない。足を置く場所が迷わず決まり、裾が遅れてついていく。
彼女の背中へ、待ってと言いたくなった。
行かなければもっと危ないのは分かる。
分かるのに、自分だけここへ残る事が急に心細かった。
右手を握りかけ、やめた。
何かできると証明したい訳ではない。今はただ、三人でまた同じ御車へ乗りたかった。
道端に落ちた布の札が風で裏返った。
昨日、商人が箱へ戻していた札に似ていた。土に半分埋まったそれを、誰も拾う事はできなかった。
巨体の下で、道が砕ける。
木だったものが跳ね上がる。
こんな物にどうやって近づくのか。
僕は紐一本を切っただけなのに。
運び手が腰の小刀を抜こうとしていた。
その時に地面が大きく揺れ、彼は荷車へ両手を戻す。刃物が石の上を滑り、道の縁から落ちていった。
追って拾える場所ではなかった。
彼は一度だけそちらを見て、すぐに車体の下へ声を掛けた。
その動きを僕は見ていた。
見ていたが、まだ右手の事は思い浮かばなかった。
頭の中には『大きい』『逃げたい』『どこへ』ばかりが詰まっている。
便利な選択肢が画面に並ぶなら、迷わず退避を押す。それなのに現実は押す場所さえ教えてくれない。
シェリルの裾が風に揺れた。
彼女は足を止めず、僕達と巨体の間へ入っていく。
その背中があまりに小さく見えた。
止めた方がいいのではと思ったのに、声にはならなかった。
シェリルが前へ出た。
彼女の周囲に細い光が重なり、空中へ大きな輪郭を描き始めた。
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続く第45話「優しい人たちの、戦い方」は、本日20時に公開予定です。




