第四十話:小さな血刃と、また来る為の約束
村を発つ前日の朝、机の傷はまだそこにあった。
僕の指には跡も残っていない。
なのに借り物の机だけが被害を記憶している。
人体の修復速度に家具が追いつかない。実に迷惑な客だ。
宿の女性へ謝ると、彼女は傷を指でなぞって笑った。
「これくらいなら大丈夫さ。次もウチを利用しておくれ」
弁償の話もしたが、古い机だからと首を振られた。
お得意さんになってくれればそれでいいとの事。もちろんだ。
しかし許してもらったから忘れていい訳ではない。僕は記録の端へ『机に傷。下敷き必須』と書き足した。
未知の能力の研究日誌に宿の備品管理が加わった。
朝食の後はシェリルとイツモアに血刃の練習の続きを見てもらう事になった。
今日は机へ厚い板を敷いてある。その上に紙と清潔な布。イツモアが僕の顔を確かめてから椅子を寄せた。
「疲れは残っておりませんか?」
「今は大丈夫。指も痛くないよ」
言いながら曲げ伸ばしする。
あの時あれほど気になった鈍い重さもない。だからといって何回でもできると決まった訳ではないのは、もう分かっている。
シェリルが紙を板の中央へ置いた。
「前回と同じくらいでいいわ。大きくするのは、形を保てるようになってからにしましょう」
僕は頷いた。
本日の目標は世界最強ではない。前回と同じ。
ずいぶん控えめな目標だが、再現できなければ、あの時の僕が偶然すごかっただけで終わる。
右手の指先へ意識を集めた。
小さく。薄く。
あの時の痛みを思い出して手が止まりかける。
感覚で言えば予防接種と似ているか?我慢できるが進んでやりたい事ではない。
「……やっぱり怖いな」
口にするとイツモアの指がわずかに動いた。こちらへ手を伸ばす代わりに、布を取りやすい位置へ寄せてくれる。
「無理に今日でなくてもよいのです」
その声を聞いて少し息が通った。
見ていてくれる人がいる。それだけで痛くなくなる訳ではないが、一人で驚いて慌てるよりはいい。
「うん。もう少しだけ。無理そうならやめる」
指の内側で引かれるような感覚がした。
続いてちくりと痛む。赤い点から細い縁がせり出した。
出た。
前回より長くはない。
それでも落ちるはずの血が、僕の指先で小さな形を保っていた。
イツモアが息を呑む。
シェリルは顔を近づけ過ぎず、根元と先端へ順に目を向けた。
「そのまま。動かす前に少し息を吐いて」
言われて初めて息を止めていたと気づいた。
僕は細く息を吐く。先が揺れる。戻そうとすると短くなる。
おいおい。勤務開始早々に帰り支度をするな。
「本日も宜しくお願いいたします。血刃様」
つい口にした僕へ二人の視線が集まったような気配。指に意識を集中しているので確認はできていないが。
「……だから勝手に短くならないでいただきたい」
お願いしたところで刃は答えない。
ただ意識を向け直すと、縮みかけた縁が少し戻った。
「名前をつけたの?」
シェリルの声には笑いが混じっていた。
僕は手元を見たまま答えた。
「血の刃だから血刃。けつじん。分かりやすいでしょう?」
格好いい技名を考える余裕はなかった。
物語の主人公なら叫ぶと恥ずかしい名前を付けるだろう。8文字以上の英語で。
僕には無理だ……。
そのうち機嫌がよければ、他の名前でも考えよう。
初対面で距離を詰め過ぎると嫌がられそうだから「さん」付けで呼ぶか。
……僕の血なんだけどな。
紙へ縁を当てて短く引いた。
切れ目ができる。下の板へ深く押し込まずに指を上げると、赤い先端はまだ残っていた。
前回は切れた事に驚いて形が崩れた。
今日は切った後まで保てている。
たったそれだけだ。
でも、同じところへ戻ってきた訳ではなかった。
「できたね」
シェリルが静かに言った。
僕は頷きかけ、指の奥がじんと重くなったところで手を止める。
「……ここまでにします」
形を保つのをやめると血は丸まり、用意した布へ落ちた。
イツモアが傷の様子を確かめる。僕も自分で布を押さえた。
痛い。
やはり痛いものは痛い。名前をつけても福利厚生は改善されなかった。
「紙を切ってからも形が残りましたわね」
イツモアが記録へ書き込む。
僕は指先を押さえながら、どこで痛みが出たかを伝えた。
シェリルは落ちた血と紙を別にして、僕へ顔を向ける。
「前回より扱えた。でも、平気になった訳ではない。その両方を書いておきましょう」
僕は頷いた。
紙を切れるようになったから剣を受け止められる、なんて話ではない。
僕の脳内のスキルツリーはすぐ先の方まで光らせたがるので困る。
今日分かったのは小さな刃を作れる事。
短く動かした後も保てた事。
そして出血も疲れも、ちゃんとついてくる事だった。
午後は荷物をまとめた。
イツモアが乾かした香草の包みを並べ、僕は記録の紙を重ねる。
来た時より荷物が増えている。
片方は美味しくなる物。片方は僕が何者なのか分からなくなる物。
同じ鞄へ入れるには温度差が激しい。
「こちらは帰りの分にも残しておきたいですわね」
イツモアが香草の包みを一つ分けた。
僕は昨日の汁物を思い出して頷く。
「また食べたい。あの少し苦い方も、結構好きだったよ」
彼女は手を止めた。
こちらに目を向けないが口元が緩んでいる。
それから嬉しそうに包みの口と自分の口元を結び直す。
「では、そちらも覚えておきます」
今度はシェリルから、帰ってから使い比べたいと声がかかった。
二人が包みを選ぶ間に僕は鞄の内側を確かめる。
登録証。ある。
紙。ある。
財布もある。
初日に比べれば成長した。確認を寝間着のポケットから始めていない。
翌朝、御車へ荷物を積む頃には村のかまどから煙が上がっていた。
畑へ向かう人が手を上げる。僕も頭を下げ、宿の女性へもう一度礼を言った。
リネアは苗床のそばで待っていた。
札を結んだ杭が並び、勇者の葉は昨日より少しだけ起きている。
「逃げちゃだめだ」とでも思ったのだろうか。
「持ち直しましたね」
僕が覗き込むと彼女は頷いた。
「まだ様子を見ます。元気になったからといって、急に戻すとまた萎れてしまうので」
隣でシェリルが僕を見た。
何も言わない。
言わないが通じている。僕の事ですね。分かります。
リネアはイツモアへ小さな包みを渡した。
料理の話を二言三言交わす。その時は膝をつかず、少し緊張した笑顔のまま見送ってくれた。
「お気をつけて。またお立ち寄りください」
「うん。また来ます。魔王が増え過ぎてないか確認しないと」
リネアが笑う。
イツモアも包みを大切そうに抱え、僕の隣で頭を下げた。
御車が動き始める。
屋根の間から苗床が見えた。リネアはまだ手を振っていた。
知らなかった村が遠くなる。
来る時は煙と物干ししか見えなかったのに、今はあの家で誰が何をしているのか少しだけ分かる。
それだけで景色が違って見えた。
僕は窓から手を下ろした。
「次はカウガだね」
シェリルが手元の板を開く。イツモアは荷物を足元へ寄せ、僕の右手をちらりと見た。
「道中はお休みくださいませ。揺れなくても、練習には向きませんから」
「分かってるよ。けっちゃんも休暇中です」
今度はシェリルが吹き出した。
「けっちゃんってカイが血刃って呼んでいたアレの事?」
血刃様から急に親しみが増した事がおかしかったのか、刃物に愛称までつけた事がおかしかったのか。
両方だろうな……。
僕は傷のない指をそっと曲げる。
紙一枚を切る。
今はそれだけだ。
けれど何もできないと思っていた手に、できる事の可能性が一つ増えた。
次にテトライルへ会ったら、少しは驚いてくれるだろうか。
ヴィンセントは……まぁいいか。
銀色の狼たちが街道に滑り込む。
窓の外で木々が流れ始め、谷の向こうにはまだ知らない道が続いていた。
お読みいただきありがとうございます。
ナギでの滞在は今回で一区切りです。小さな血刃と、また訪ねたい場所。カイの旅の荷物が少し増えました。
カイたちの旅の続きを、ブックマークして見守っていただけると嬉しいです。
作者X:https://x.com/karasunoaoi




