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第三十七話:赤い記録と、共同研究

廊下で足音が聞こえ、部屋の前で止まった。

続いて扉を控えめに叩く音が三回響く。


「カイ様。朝食のご用意が整いました」


イツモアの声だ。

僕は布を少し持ち上げて傷を見た。出血はほぼ収まっているが、まだ赤い点が残っていた。


ここで上着へ手を隠して何でもない顔をする。

それもできる。


だが何をしたのか分からない段階はもう過ぎた。

少なくとも血が刃の形になって紙を切った事は言える。


「イツ。ちょっと見てもらっていい?」


扉が開いてイツモアが入ってきた。

彼女は僕の顔を見てから手元へ視線を下ろした。布の赤い染みに気づくと歩調が速くなる。


「お怪我を?」


僕のそばへ膝をついた彼女の顔に焦りが浮かぶ。

それでもすぐには手を取らなかった。

まず僕が押さえている場所を確かめ、それから机の上を見た。


「一体どうされたのでしょうか?」


声に動揺が含まれていた。

だからこそ軽い冗談で済ませる気にはなれなかった。


「指の形を変えようとしてた。ここ数日で少しできるようになって。それで今朝、薄くしようとしたら……血が出てきた」


僕は切れ目のついた紙を示した。


「その血が固まったみたいになって、これを切れたんだ」


イツモアは紙を持ち上げた。

切れ目と血の跡を見てから僕へ目を戻す。その表情には心配だけでなく戸惑いもあった。


「血が、そのまま刃のようになったのですか?」


頷くと彼女は僕の指を見せてほしいと言った。

布を外す。傷はもうほとんど見えない。

彼女の指先が手の下へ添えられた。傷へ触れない持ち方だった。


「今も痛みますか」


「うん。少し。形はもう戻ったけど」


彼女は傷の周囲を確かめた。

その間にも赤い点は薄くなっていく。僕自身が見ていても落ち着かない治り方だった。


「シェリル様にもご相談しましょう。今呼んでまいります」


イツモアは立ち上がる前に布を僕へ返した。


「もう一度試すのは、お待ちくださいませ」


その目を見て僕は頷いた。

今回は反論の余地がない。紙は逃げないし、勝利の証拠も残っている。

負傷した本人が「もう一戦だけ」と言っても、ゲームをやめられない子供より説得力がない。


しばらくしてシェリルが部屋へ来た。

イツモアから話を聞いていたのだろう。僕のそばへ椅子を寄せると、まず手を見せてと言った。


僕は指を伸ばした。

彼女は傷のあった場所を見てから反対側の指と比べる。


「今はほとんど見えないわね」


「さっきまでは血が出てた。治るのも早いと思う」


シェリルは僕の顔を見た。

隠していた事を問い詰める顔ではなかった。ただ説明の続きを待っている。


僕は紙へ書いた記録を差し出した。

エイリス語ではないと説明すると彼女は静かに目を落とした。文章を追うように瞳が左から右へ動く。


しばらくして僕へ顔を向けた。


「カイ。読み上げてもらえる?」


どうやら読めないらしい。

少しだけ意外だった。この人にも知らない事があるのか。

僕の中で何でも答える案内係になっていたが、その窓口にも担当外はあるらしい。


僕は記録の順に沿って話し始めた。


指の厚みを変えられた事。

紐を結ぶ間は保てた事。

血が皮膚を突き破って出てきた事。


言葉にすると、それまで別々に考えていた出来事が机の上へ並ぶようだった。

体液についての仮説はまだ自分でも整理できていない。今は実際に起きた事から話した。


「切れるところまで確かめたのね」


シェリルは紙の端を光へ透かした。

僕が頷くと彼女は血の跡へ視線を移す。


「なら、今日は同じ事を繰り返さなくていいわ。痛みが出た場所と疲れ方を先に記録しておきましょう」


僕は筆を取った。

書こうとして右手を止める。握れない訳ではないが、まだ指先がじんとする。


「私が書きますわ。カイ様はお話しください」


イツモアが別の紙を手元へ引いた。

何が起きたか一つずつ尋ねて僕の答えを書き留めてくれる。


今度の記録はこちらでいうエイリス語だった。僕には日本語に見える。

秘密の研究日誌、共同研究になった途端に共通言語へ移行である。

読めない文字で格好をつけていた男、結局すべて口頭説明。

秘密というより二度手間だった。


僕は少し笑ってしまった。

イツモアが顔を上げる。何でもないと首を振ると彼女はまだ心配そうな顔で筆へ戻った。


「出てきた血は全部この布に?」


シェリルの問いに、僕は紙の赤い跡も示した。

刃をやめたら滴になって落ちた。

『体へ戻ったようには見えなかった』と伝える。


彼女は布を畳んで紙と一緒に分けて置いた。


「分かったわ。傷が閉じる事と、出た血が戻る事は別に考えましょう」


その区別は僕にもすんなり分かった。それとこれは別だ。


僕は自分の指を見た。

治ったから何も失わなかったとは言えない。

あの刃を何度も出したら何が起きるのか。今はまだ分からない。


窓の外で誰かがリネアを呼んでいた。

いつもの村の朝だ。僕の知らないところで鉢が運ばれ、湯が沸き、朝食の皿が並んでいる。


昨日は紐から指を守れた。

今日は紙を切れた。


少しずつできる事が増えている。

けれど自分の体について知らない事も同じくらい増えていた。


イツモアが書いた紙の最後へ目を向ける。


『血液が刃の形になった。紙を切れた。痛みと出血あり。解除すると滴になった。強い疲労』


成果だけ並べれば新しい技能を覚えたように見える。

実際には説明欄の下半分が注意事項で埋まっている。


これ初心者に配るスキルではないだろう。

一種の呪いステータスかもしれない。


僕が椅子から立つと、イツモアも立ち上がった。

シェリルは僕の手をもう一度見てから戸口へ向かう。


「続きは朝食の後で。今度は私達にも聞かせてね」


その言い方に僕は少し肩の力が抜けた。

何もかも一人で分かるようになってから話す必要はなかったらしい。


僕は机へ残した紙を振り返った。

短い切れ目が朝の光の中で開いている。


本日の対戦相手には勝った。

ただしこちらも負傷。


次に覚えるべきなのはもっと長い刃ではなく、痛い目を見過ぎずに扱う方法なのだろう。


僕は右手をそっと開いた。

指先にはもう赤い刃も傷もない。


それでも紙の切れ目は残っていた。

お読みいただきありがとうございます。


紙との勝負を終えたカイ。秘密の研究日誌は、三人の共同研究になりました。

続きも気になりましたら、ブックマークしていただけると嬉しいです。


作者X:https://x.com/karasunoaoi

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