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第三十六話:紙一枚と、赤い刃

翌朝、僕は机の前で紙を眺めていた。

昨日の記録を開く。

指を厚くする。形を保つ。元へ戻す。

そこまでは少しずつできるようになった。

問題はその下だ。

『切る。まだできない。細い形は動かすと崩れる』

文字にすると実に簡潔である。

僕の苦労は一行で処理されていた。

攻略サイトなら「ここで刃を作ります」で済まされるところだ。

その「ここで」ができないから困ってるんだよ。

何だよ、指から刃を出す事が前提の特技って。

窓の外では鳥に似た生き物が鳴いている。

昨日と同じ声だが姿はまだ見ていない。

鳴き声だけなら穏やかな朝なのに、実物を見たら脚が六本あったりするのだろうか。

ありうるな。異世界だし。思ったより元居た世界に近しいが。

そう言えばモンスターの類には出会っていないな。

いないのかな?

この世界、油断して図鑑を開くと常識の方が閉じそうだ。

僕は紙を一枚机へ置いた。

本日の対戦相手は紙。

昨日は判定負けだった。今日はせめて引き分けに持ち込みたい。

……紙と引き分けって何だ。

昨日書いた記録を読み返した。

『作る。保つ。戻す。別々に確かめる』

怪我をする予定はない。

ただ先日の木箱の件を思うと、手元に布くらいはあった方がいい。

……こういう準備をした時ほど何か起きる気がするのは、僕が物語を読み過ぎたせいだろうか。

分かった。これはフラグってヤツだな?

では布を片づけたら回避できるのか。

いや、それはそれで別のフラグだ。物語に詳しいと余計な心配が増える。

あちらを立てればこちらが立たず、デッドロック状態だ。

紐を結ぶ時には指の厚みを保てた。だが薄く硬くしようとすると形が崩れる。

大きさの問題なのか。動かし方なのか。それとも僕が刃というものをよく分かっていないのか。

ゲームなら、ステータス画面で装備の絵を見てボタンを押せば済む。

現実は説明書を渡してくれない上に、失敗した時の責任までこちら持ちだ。

僕は右手の人差し指を机の上へ伸ばした。

まず昨日と同じ小さな厚みを作る。指を曲げても残る。元へ戻す事もできた。

ここまでは大丈夫。

次は指先の端へ意識を寄せた。

尖らせるだけでは紙を押すだけになる。薄い縁を作り、その形を保ったまま動かせればいい。

目を閉じかけてやめた。

手元を見ずにやるにはまだ信用が足りない。自分の手なのに。

指先に小さな盛り上がりができた。

昨日より狭い場所だ。反対の手で触ると少し硬い。

これを薄く。

そして細く。

輪郭を思い浮かべた途端、指の内側で何かが引かれた。

「……っ」

鋭い痛みが走った。

反射的に手を引く。指先に赤い点が浮かび、そこから短い筋が伸びた。

切った?

何で?

机にも紙にも尖った物はない。

僕は息を詰めて指を見た。

血が出ていた。

だが落ちない。

皮膚を突き破った赤いものが指先からほんの少し伸びている。

爪ほどの長さもない。根元には血が滲んでいるのに先は細く、薄い縁が朝の光を受けていた。

血の滴ではない。

形がある。

「……え?」

声を出すと集中が途切れて赤い縁がぐにゃりと曲がった。

僕は慌てて指を止めた。

さっきの形。

薄く、細く。

揺れた先端が再び細い形へ戻る。

僕は左手を伸ばしかけて引っ込めた。

硬いかどうかを触って確かめるのは後だ。いや触る相手は自分の皮膚ではない方がいい。

机の紙が目に入った。

この為に置いたんだろう。

ただ予定していた使用方法とはかなり違う。

僕は指をゆっくり下ろした。

血でできた小さな縁を紙の端へ当て、ほんの少し引く。

軽い抵抗があった。

紙の端が分かれた。

昨日のように擦れた跡がついただけではない。

短い切れ目だ。指を離すと左右がわずかに開いた。

切れた。

紙を持ち上げるとその下の机にも鋭いもので引っかいたような浅い傷がついていた。

思わず顔を近づけた瞬間指の痛みを思い出した。

嬉しさの後から妙な寒気が追いついてくる。

僕が欲しかったのは、紙を切れる指先であって、指先から出てくる紙切りではなかった。

仕様変更が大胆過ぎる。

せめて事前に相談して欲しい。社会人の常識「報・連・相」だ。

赤い刃が震えた。

指の奥に鈍い痛みが残っている。形を保とうとすると肩まで力が入り、息も止まりそうになった。

もう一度切れば確かめられる。

そう思ったが紙の切れ目は既に目の前にある。

今日はここまででいい。

戻そうと考えた。

昨日の厚みのように皮膚へ収まってくれるのかと思ったが、刃は短くならなかった。

薄い縁が丸まり、赤い滴に変わる。

僕は用意していた布を取った。

血はそこへ落ちた。続いて傷口から小さな滴が滲む。

押さえると痛みがはっきりした。

なるほど。

格好よく出せたからといって格好よく収納できる訳ではない。

しかも普通に痛い。

演出用の赤いエフェクトではなかった。そりゃそうだ、僕の血だもの。

指を押さえながら椅子へ背を預けた。

紐で札を二枚結んだ時より疲れている。ほんの短い間だったのに、何度も力仕事をした後のようだった。

紙を切っただけだぞ。

割に合わないにも程がある。

それでも僕は紙から目を離せなかった。

小さな切れ目の脇に血の跡がある。

指の形を変えたつもりだった。

なのに形が変わったのは血だった。

昨日の仮説が一つ急に現実へ出てきてしまった。

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