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第三十四話:僕の中を流れるものと、思い出した感覚

滞在を延ばして迎えた朝、僕は昨日より早く目を覚ました。

嬉しい事や楽しい事がある時は早く目覚める。

人類共通の事象だ。子供か僕は。

窓の外はまだ薄暗い。谷の向こうの空だけが明るくなり、屋根の上に残った湿気が光を受け始めていた。

机の紙を開くと昨日の文字の横に新しい余白がある。

見られて困る物ではないが、一応英語で書き留めている。

こんな時バイリンガルは楽だな……。

英語は書ける。なのに履歴書に書くべき自分の経歴が出てこない。

特技欄だけ埋まっている男。採用担当も困るだろう。

この世界に来る前の、うっすらとした記憶の街並みは日本とかけ離れた風景だったような……。

まぁいい。今は頭を切り替えよう。

三日ある。

だからといって三日で何でもできる訳じゃない。

むしろ急いで一度に試さなくていい。それが嬉しかった。

僕は手を開いて指の腹へ小さな厚みを作った。

昨日より場所を選ぶまでに迷わない。形はまだ歪むが、戻す時の感覚も少し分かる。

指を曲げる事とは違う。

筋肉へ力を入れているのではなくそこにあるものを寄せているようだった。

何を寄せている?

僕は筆を取って紙へ書いた。

日本語に置き換えるならこんな内容だ。

『皮膚? その下の組織? 細胞?』

言葉が並ぶと急に物騒な研究に見えた。

指がちょっと膨らんだだけなのに、並んだ単語はもう学会発表に出す論文みたいだ。

けれど何が起きているかは分けて考えたい。

傷が早く閉じた事と形を変えられた事。どちらも自分の体に起きている。

もし細胞を動かしたり変化させたりできるなら、傷の縁が寄ったのもその為なのだろうか。

治る働きは勝手に起きた。厚みを作る時には意識が必要だった。

同じ仕組みかどうかはまだ分からない。

自分の体なのに取扱説明書がない。せめてよくある質問のページくらい欲しい。

Q&Aってやつだ。

僕は二つの見出しを書いて間を空けた。

『勝手に起きた事』

『自分で起こせた事』

次に思い浮かんだのは血だった。

昨日……いや最初に木箱で切った時。傷から出た血は確かにあった。皮膚が変えられるなら体内の血液も同じように扱えるのではないか。

僕は手首へ指を置いた。

脈がある。押さえて確かめられる。だがその流れを動かすつもりになると途端に怖くなった。

ここは試さない。

流れているものを止めたり妙な場所へ寄せたりして、無事で済む保証はない。

傷の治りが異様に早いこの体でも、失敗の後で全部戻るとは限らない。

よくよく考えると僕はかなりロジカルで慎重な人間のようだ。

『血液も対象かもしれない。体内の流れを変える実験はしない』

そう書くと少し肩の力が抜けた。

思いついた事を全部試さなくてもいい。

好奇心に任せていたら朝食前に僕が壊れる。

研究する側とされる側が同じだと、止める係がいない。

その下へ筆を持っていき、また止まる。

ん? ひょっとして体液もか?

汗。唾液。それから――。

僕ははっと顔を上げた。思い当たる節がある。

イツモアと過ごした時の、あの感覚が不意に戻ってきた。

巨大なスポンジに何かを急激に吸い取られているような感覚。

同時に膨大な情報が体へ流れ込んできた。

普通の体験だったと片づけるにはあまりに異様な感覚だった。

しかも彼女はその後に変わった。本人も驚いていたような……。

僕を呼ぶ声。こちらへ寄り添う仕草。嬉しそうな顔と離れたがらない様子。

僕の方まで、その声を聞くと落ち着くようになっていた。

僕の体液に、彼女へ何かを与える性質があったのだろうか。

あの吸い取られる感覚もただの感覚ではなかった?

僕は筆先を紙へ置きかけ、持ち上げた。

待て。

彼女の気持ちまで全部そのせいだと決めるのは早い。

「カイ様が目を覚まされた時、初めてお顔を拝見し、その声を聞いた時、何故だかとても懐かしく悲しい……そんな不思議な感覚を覚えました」

とも言っていた。

昨夜の料理の話を思い出す。怪我をした時の問いかけも。

イツモアは自分で見て考えて、僕へ話してくれている。

体に何かが起きた可能性と彼女がどう感じているかは、まとめて説明していい話じゃない。

『自分の体液が相手へ影響する可能性。感情との関係は分からない』

さらに流れ込んだ方についても書いた。

『何を受け取ったのか不明』

まだ線で結べない。

指の形が変わる事とあの時の出来事が同じ原因だと示すものはなかった。

窓の向こうで戸が開く音がした。村が少しずつ起き始めている。

僕は紙を畳んで朝食へ向かう事にした。

一旦休憩だ。

考えをまとめる、考察をするのは楽しい。

イツモアは厨房から出てきたところだった。

手には湯気の上がる皿がある。昨夜、宿の人と相談していた香草入りの焼き物らしい。

「カイ様。味を見ていただけますか?」

皿が僕の前へと置かれた。表面に焼き色がつき、割ると中から香りが上がった。

僕は熱いところを避けて一口食べた。

「すごく美味しいよ。昨日の汁物とまた違うね」

彼女の顔がぱっと明るくなった。可愛い。

シェリルも無言で皿へ手を伸ばし、少し塩気を変えたらどうかと尋ねる。

二人の会話を聞きながら僕はもう一口食べた。

今、嬉しそうな彼女を見ている。この場面まで体質の説明だけで分かった気になりたくなかった。

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