第三十二話:小さな実験と、苗床のエイリス
翌朝、僕は自分の指に向かって唸っていた。
変わらない。
昨夜は確かに盛り上がった。元にも戻せた。それなのに今は、力を入れても普通に指が曲がるだけだ。
発見した新機能、翌朝にはサービス終了。
早過ぎる。せめて利用規約を読ませてくれ。
窓から差す朝の光が机の端を照らしていた。昨夜書いた文字の横に、筆先から落ちた小さな染みがある。
外では桶を置く音がして、誰かが畑へ行く相談をしている。屋根の近くで羽ばたいた鳥の影が、一瞬だけ紙を横切った。
僕は指を握るのをやめ、手を机へ置いた。
昨夜、どうした?
力いっぱい曲げた訳ではない。傷のあったところを意識した。そこへ厚みがあれば、と思った。
指全部ではなく、一か所だけ。
皮膚の内側で小さく何かが寄った。
僕は動きを止め、反対の手で確かめる。小さな厚みがある。
できた。
声を出しかけて飲み込んだ。ここで歓声を上げたら、廊下のイツモアが飛んでくる。
説明が「指がちょっと膨らんだ」では、寝起きに虫へ刺された人である。
僕は筆を取り、昨日の一行の下へ書いた。
『強く握ると失敗。狭い場所を意識するとできる』
厚みを残したまま曲げると少し引っ掛かる。指の真ん中まで固めたら、道具を持ちにくそうだ。
今度は端だけに寄せてみる。
形が崩れた。
……そう都合よくはいかないか。
僕は元へ戻し、手を休めた。少し成功しただけなのに指の奥が重い。
窓の外で、昨夜見えなかった畑の畝が朝日に浮かんでいた。
隣の畝まで飛び越えようとして、足元の一歩を忘れている気分だった。
何回できるかより、同じ事ができるかを先に確かめよう。
そう書いたところで扉が叩かれた。
「カイ様。朝食の支度が整ったそうです」
イツモアの声だ。僕は紙を畳んで上着の内側へ入れ、手を洗った。
廊下へ出ると彼女は僕の指を一度見た。
「昨日のお怪我はいかがですか」
「痛みはないよ。箱の縁には、もう触らないようにする」
彼女は頷き、食堂へ続く方を示した。小さな変化は元に戻っている。魔法の光も出ていない。
僕が何を試していたかまで、外から分かる訳ではないらしい。
朝食は柔らかなパンと、昨夜より少し薄い汁物だった。
シェリルは窓辺の席で、村の人が教えてくれた草の名前を書いている。イツモアは汁物の香りを確かめ、昨日とは違う葉が使われていると話した。
僕も椀を持つ。
指は普通に動いた。さっきの厚みは、どこにも見えない。
自分の体なのに、知らない仕掛けを一つ見つけたようで落ち着かなかった。
食後は村をもう少し歩く事になった。
シェリルは畑の脇にある苗床を見たがり、イツモアは香草を確かめたいらしい。
僕は、まだ話していない人の暮らしも見たかった。
昨日は煙を眺めていた場所を、今日は自分の足で歩ける。
朝露の残る道は少し柔らかい。家の前に薪が積まれ、洗った籠が逆さに干されていた。
庭先では子供が大きな桶を傾けようとしている。水をこぼした途端、戸口から呼ぶ声が飛んだ。
僕は思わず口元を緩めた。
魔法がある世界でも、水をこぼせば叱られるらしい。
村の奥で、布の屋根を張った小さな苗床が見えた。
風に煽られないよう、屋根の端へ石を括りつけてある。その下には鉢が何列も並び、小さな札が挿されていた。
そこに、長い耳を持つ女性がいた。
淡い銀色の髪を後ろで結び、袖を捲っている。土のついた指で鉢を持ち直す姿は、昨日見た村の人たちと変わらない。
けれど顔を上げた時に分かった。
エイリスだ。
彼女の目が僕からシェリルへ動き、続いてイツモアへ向いた。
持っていた鉢を台へ置く。その手がわずかに震えた。
「シェリル様……。巫女長様まで……」
声が細くなり、彼女はその場で膝を折ろうとした。
シェリルが一歩近づく。
「そのままで。挨拶をしに来ただけよ」
イツモアも女性へ手を差し出した。立つのを支える為の手だった。
「どうぞ、お立ちになってください。お仕事の途中でしょう」
女性は顔を上げたが、まだ体を伸ばせずにいた。
僕は何となく道の端へ寄る。自分のせいではないのに、抜き打ちの上役訪問に立ち会ってしまった気分だった。
「私がここにいる事を、お確かめに……?」
シェリルは首を横に振った。女性の目線まで少し身を屈め、落ち着いた声で答える。
「いいえ。この村ができていた事も知らなかったの。カイが見つけて、立ち寄りたいと言ったのよ」
僕へ視線が向いた。
突然、発見者の紹介をされた。何か立派な挨拶を期待されると困る。
「煙と物干しが見えたので。ここで暮らしている人の話を聞いてみたくて」
女性は少し戸惑い、それから立ち上がった。イツモアの手を借りる時、もう一度小さく頭を下げる。
名はリネア。
ネオ・エデンを離れ、この村で苗や香草を育てているそうだ。
僕達は作業台の横へ移った。シェリルは並んだ鉢を覗き、イツモアは道具を避けて立つ。
リネアは土のついた手を布で拭いた。同じところを二度拭いてから、自分でも気づいたように布を置く。
「外で暮らす事自体を咎めに来た訳ではないわ。けれど、何か困っているなら聞かせて」
シェリルの声を聞いて、彼女の肩が少し下がった。
「困っているというより……自分を探しに出ました」
僕は思わず顔を上げた。
自分探し。元の世界でも聞いた事のある言葉だ。
ただ、目の前の人は観光鞄を持っていない。手には土がつき、ここで育てた苗が並んでいる。
「ネオ・エデンでは、どんな事をしていたんですか?」
「備品を扱う仕事です。必要な物を揃えて、数を確かめて……嫌な仕事ではありませんでした」
リネアは言葉を選び、布を畳んだ。
「でも、明日も、その次も、同じように過ごすのだと思うと。私はそれを望んでいるのか、分からなくなって」
イツモアは黙って聞いていた。すぐに女神の教えを説くような事はしない。
僕も返事を急げなかった。
同じ事を続けるのが悪い訳ではない。
けれど、続けたいのか分からないまま長い時間を過ごすのは、どんな感覚なのだろう。
リネアの後ろで、布屋根の影が鉢の上を動いた。
葉の先へ触れそうな手が止まり、代わりに鉢の位置を少しずらす。
まだ探している人の手だった。
そして、探しながらここで暮らしている人の手だった。




