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第三十一話:知らない村と、僕の手の中の異変

目が覚めると、窓の向こうで誰かが荷車を押していた。

車輪が石畳の継ぎ目を越える音。遠くで開く鎧戸。階下からは食器を重ねる音がする。

知らない街で迎える朝なのに、昨日より少しだけここがどんな場所なのか分かる。それが何となく嬉しかった。

僕は体を起こし、服の中を探った。

ない。

登録証がない。

一瞬で目が覚めた。

冒険者カイ、資格取得の翌朝に資格喪失。そんな最速記録はいらん。

「カイ。昨日そちらへ入れていたでしょう?」

振り向くとシェリルが扉のところで笑っていた。指差されたのは椅子に掛けた上着だ。

……そうだった。今、寝間着だった。

「確認してただけさ」

僕は決め顔でそう言った。

「ええ。とても真剣に確認していたわね」

言い訳は受理された。信用はされていない。それはそうか。

僕は上着の内側から登録証を取り出して改めてしまい直した。

シェリルが鎧戸を少し開く。朝の光が床へ落ち、廊下からは温かい汁物の匂いがした。

「イツは?」

「厨房で知らない香草を見つけたそうよ。朝食の時に教えてくれるんじゃないかしら」

彼女の声に少し楽しみが混じっている。僕も腹が空いてきた。

旅に出て気づいた一つが、シェリルの事だ。

露店の焼き物を頬張っていた時の表情は、紛れもなく女子だった。

環境が整っていれば写真をSNSなどで公開しそうな雰囲気。

怒らせたら美味しい物を渡してご機嫌を取ろう。メモメモ……。

そして、イツモアの旅の記録は食卓に残りそうだ。僕の記録は登録証を失くしかけた事から始まっている。

朝食の席でイツモアはパンへ塗るものを二種類並べた。

甘い方には果実の皮を乾かしたものが入っているという。俗に言う「ジャム」ってやつだ。

「昨夜の焼き物と少し似た香りがいたします」

僕は割ったパンに少しずつ塗って食べた。後から鼻へ抜ける香りに昨日の露店が思い浮かぶ。

「ほんとだ。作り方も聞いてきたの?」

「材料だけ教えていただきました。厨房のお邪魔にならない範囲で」

彼女も自分のパンへ塗って味を確かめる。シェリルが僕達を見て同じものを手に取った。

三人で食べていると、出発の時間が少し早過ぎる気さえした。

とても穏やかで満たされた時間……。どこかで感じた感覚。どこだったか。

荷物を確かめて黄金の竪琴亭を出た。

受付の男性が「良い旅を」と声をかけてくれる。僕も頭を下げて御車へ乗り込んだ。

窓からは、昨日歩いた通りが見えた。露店はまだ準備中だ。

布を広げる人。

木箱を積む人。

眠そうな子供を背負って店の戸を開ける人。

「あの店、まだ開いてないね」

シェリルも焼き台の方を見た。昨日の看板が少しずつ窓の端へ寄っていく。

「帰りに寄れたら、また買いましょう」

帰り。

その言葉があるだけで名残惜しさが少し軽くなった。

門を抜けると、銀色の狼たちは朝日に背中を光らせながら街道を進んだ。

湖は木々の向こうへ隠れ、代わりに低い丘とその間を縫う道が続く。

草に残った露が通り過ぎるたび小さく光った。

僕は窓へ近づき、今度は身を乗り出さないように気をつけた。

カウガの図書館や学院の話を聞く。薬や作物について学ぶ人もいると知って、僕の脳内にあった「全員が杖を振る学校」は少しだけ現実的になった。

イツモアは保存食の店を見たいという。

温かい食事を用意できない時の為だそうだ。

「美味しい方がよろしいでしょう?」

「非常によろしいです」

即答するとシェリルが笑った。僕達の予定には図書館と食料の店が加わった。

けれど、その前に窓の外で気になるものを見つけた。

木々の切れ目に煙がある。

森が燃えているような広がりではない。細い煙が二本、谷の底から上がっていた。その下を白い布が何枚も横切っている。

いや、布は動いていない。物干しだ。

「あそこ、人が住んでる?」

シェリルも外を見た。手元の板へ目を落とし、もう一度谷へ顔を戻す。

「……村になっているのね」

意外そうな声だった。僕は窓ではなく彼女を見る。

「知ってたの?」

「いいえ。以前は小屋がいくつかあっただけよ」

斜面に小さな畑が並んでいる。屋根の数は数えかけて分からなくなるくらいにはあった。

道の端で誰かが籠を抱えて歩いている。

知らない場所だ。

僕だけではなくシェリルにも。

何だかそれが嬉しかった。新鮮な気分だ。

何でも知っている人に案内されるだけではなく一緒に見つけた場所ができた気がした。

「寄ってみようよ。予定が許すなら、今日はここに泊まりたい」

シェリルは僕の顔を見た。それから谷へ続く道と、空の明るさを確かめる。

「宿があるかは尋ねないと分からないわね。カウガへ着くのは遅くなるけれど、それでも?」

「うん。急いで通り過ぎるの、もったいない気がする」

イツモアが少し開いた窓から外を見た。籠を持つ人の先に納屋と停まった荷車がある。

「道は使われているようです。まず泊まれる場所と最近の様子を伺いましょう」

僕は頷いた。

立ち寄ると決めても、安全だと決めつけた訳ではない。

御車が枝道へ入る。畑の土が近くなり、小さな葉が風に揃って裏返った。

「ところで、村に入ると最初に困りごとを頼まれたりするのかな」

口にした瞬間、イツモアが僕を見た。シェリルは既に笑いをこらえている。

「まずは挨拶でしょうね」

そうだった。

僕の脳内の村人は初対面の相手に職歴も聞かずに魔物退治やお遣いクエストを依頼し過ぎである。

村はナギという名だった。

籠を抱えていたカニス族の女性が教えてくれた。

近年、畑の近くへ家を移した人と、別の集落から来た人が集まり、ここで暮らすようになったそうだ。

彼女は街道の荷車を泊める納屋を指した。

その隣の建物には人が眠れる部屋もあるという。

イツモアが道と出入口を確かめ、シェリルが宿泊の相談をする。僕はその横で畑から戻る人たちを見ていた。

誰も僕を神様扱いしない。珍しい旅人が三人来た、という顔だった。

それが思っていた以上に気楽だった。

夕方まで僕達は村で過ごした。

シェリルは家の前に植えられた草について話を聞き、イツモアは夕食の準備を眺めていた。僕は納屋へ運ぶ空の木箱を邪魔にならない場所へ寄せる事になった。

初クエストではない。

泊まる場所でちょっと手を貸すだけだ。

だが、何をすればいいか教えてもらえるのは助かった。

「それは軽い方だよ。こっちへ重ねてくれる?」

最近はこんな些細な事も、ちょっとしたお願い事もなかった。何だか嬉しい。

僕は箱を持ち上げた。縁を握り直した時、指に軽い痛みが走った。

ささくれだった。

指の腹に出血を伴う赤い線ができている。

大騒ぎする程ではないが、それなりの出血量だ。

箱を置いて手を離した。女性が清潔な布を渡してくれる。僕は礼を言い、傷を水で洗ってから布で押さえた。

かまどの方からイツモアの声がする。呼べばすぐ来てくれる距離だった。

治療を頼むほどでもないと思った。

その時には確かに傷があった。

少しして布を外すと、もう閉じていた。

僕は傷のあった指を確かめ直した。

見間違いではない。さっきと同じ場所だ。

……早くないか?

痛みは薄く残っているのに、傷の縁だけが寄っている。驚いている間に赤い線まで見つけにくくなった。

少しの休憩を挟み、視線を動かすと、納屋の脇で女性が湿った紙を浮かせていた。荷物の覚え書きらしい。

薄い紙が彼女の掌の上でゆっくり揺れている。

「端だけ押さえてくれるかい。風で裏返りそうだから」

僕は布で拭いた指先で紙の隅へ触れた。

その部分だけがふっと下がる。

ほかの紙は浮いたままだった。触れた隅は吊っていた糸が切れたように垂れている。

僕が指を離すと女性は手を動かし、紙はまた水平になった。

「あ、ごめんなさい。押し過ぎました?」

「いや。少し濡れたかな。ありがとう、もう大丈夫」

女性が紙を取り込み、僕も頷いた。

濡れて重くなっただけかもしれない。指には汗も拭った血の残りもあったのだろう。

けれど僕は自分の手を見た。

魔法は使えない。

それなのに触れた場所で何かが変わった。

そこへイツモアが来た。僕が布を借りた事に気づき、怪我をしたのか尋ねる。

僕はささくれの話をして指を見せた。

彼女は触れる前に表面を確かめた。

「閉じていますね。痛みはございますか」

「少し。でも、さっきよりずっとまし」

僕が箱を指すと、彼女は縁の割れた場所を見つけて村の女性へ伝えた。

次に持つ人が同じところへ触れないように。

夕食には香草の入った汁物が出た。

イツモアは作り方を教えてもらったらしく、火を止める直前に葉を入れるのだと話した。

シェリルがその草の名を尋ねる。

僕も温かい椀を持った。

いつも通り持てる。指も曲がる。

だからこそ、あの治り方が気になった。気のせいだろうか……。

夜、借りた部屋の窓から、かまどの煙が見えた。

夕食の片づけはまだ続いているらしい。桶の音と、低い話し声。

遠くで鳴いた生き物の声は、僕の知っている虫に少しだけ似ていた。

あぁ……のどかだ。こんな生活を実はしたいのだろうか。

僕は洗った手を拭いて指の腹を見た。

昼間、確かに切った。

その傷は閉じた。しかも、その指で触れた紙だけが妙な落ち方をした。

濡れていたからか? 重くなったからか? それとも……。

様々な可能性が脳内を駆け巡る。だが、不自然な傷の治り方を思い出すたび、考えが途切れた。

自分の傷の治り方は説明できなかった。

僕は親指で傷のあった場所を撫でた。

ここに少し厚みがあれば、紙や木の端から守れるのだろうか。

思った途端、皮膚の内側で何かが寄った。

指を曲げた訳ではない。押した訳でもない。

それなのに、指の腹の一部が小さく盛り上がっていた。

僕は息を止めた。

思わず反対の手で触った。

ある。

気のせいではない。

「……何、これ」

声は部屋の中へ小さく落ちた。

シェリルは階下で明日の街道の様子を聞いている。

廊下の向こうにはイツモアがいる。呼べばすぐ来てくれる。

ただ、僕はもう一度だけ確かめたかった。

何をしたのか、自分で言えるようになりたかった。

戻れ、と考える。

盛り上がりはすぐには戻らない。焦って指を握ると、どこへ力を入れていたか分からなくなった。

僕は手を開き、ゆっくり息を吐いた。

指全部ではない。さっき、傷のあったところだけ。

表面が少しずつ平らになった。

光は出なかった。空気も揺れていない。

それでも何も起きなかった訳ではない。

机に置いた筆を見た。

書いておこう。

そう思ってから、片手しか使っていないのに妙に疲れている事へ気づく。

『指の一部。厚くできた。戻せた。疲れる』

その下へ『もう一度』と書きかけてやめた。このまま書き続けていると『かゆ、うま』とか書きそうで。

初回から限界まで試す研究者は、研究対象が自分の場合、かなり割に合わない。

……研究者?

言葉が妙にしっくりきた。だが、今はその意味より目の前の手の方が気になる。

明日、もう一度。

同じ事ができるか、まず確かめよう。再現性の検証だ。

僕は筆を置いて窓の外へ目を向けた。

知らない村の煙が暗い空へ細く上がっていた。

カウガへ着く前に調べたいものが増えた。

しかも今度は本棚ではなく、自分の手の中にあった。

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