第三十話:街の暮らしと、明日の旅
隣の店では、靴の底を張り替えていた。
店主が曲げた革を膝に押し当て、太い糸を引く。指の節は太く、爪の周りが黒ずんでいた。客は片方だけ靴を履いたまま腰掛けて、仕上がるのを待っている。
その向こうには、鍋と留め具と、何に使うのか分からない小さな金具。
珍しいものばかりなのに、店先で起きている事は妙に馴染みがある。
値段を聞いて渋い顔をする客。
品物を受け取り、何度も礼を言う人。
親の手を引いて、別の店へ行きたがる子供。
さっきシャトーリが言っていた、誰かが困っているから仕事がある、という話を思い出した。
荷物を運ぶ。
壊れたものを直す。
足りないものを買う。
依頼板の紙も、この通りのどこかにつながっているのだ。
倉庫の荷物整理も、終わらなければ困る誰かがいる。受付へ迷わず向かったあの人は、明日、その誰かの役に立つのだろう。
それを想像すると、受けられなかった事が少し悔しくなった。報酬や初仕事という響きとは別のところで、やってみたかった。
「どうしたの?」
「いや。みんなここで暮らしてるんだな、と思って」
言ってから、自分でも変な感想だと思った。
当たり前ではないか。街なのだから。
けれどシェリルは笑わなかった。
僕の視線の先を見て、それから通りへ目を戻した。
「ええ。この人たちにとっては、いつもの一日なのよね」
彼女が少し肩を寄せる。人が多くて声が聞き取りにくかったので、僕も近づいた。
「剣の事ばかり考えているのかと思ったわ」
「それも考えてたけど」
店先で剣を見ていた時の顔を思い出されているらしい。彼女の目元に、小さな笑みが戻った。
「知っているわ。店先で、随分迷っていたもの」
僕は何となく頬を掻いた。
何もかも見られている。
その時、荷車が角を曲がってきた。
シェリルが道を空ける。僕の左側でも、空気が少し揺れた。
イツモアも、同じ通りを歩いている。
僕には見えなくても、彼女にはこの街がどう見えているのだろう。
宿屋に戻る頃には、足の裏がじんわり重くなっていた。
店を見ている間は平気だったのに、見覚えのある入口が見えた途端、歩いた分がまとめて足に戻ってきたようだった。
部屋の扉を開けると、外より少し冷たい空気と、乾いた木の匂いがした。
椅子に腰を下ろし、背もたれへ体を預ける。
思わず息が漏れた。
「……結構、歩いたね」
「ええ。私も座りたいわ」
シェリルが隣の椅子を引いた。
彼女まで同じように息をついたので、僕は少し笑った。
「疲れるんだ」
「もちろん。あなたが次々と店を見つけるから」
シェリルが袖口を緩める。僕だけが休んでいる訳ではないと分かると、張っていた肩の力が少し抜けた。
「付き合わせてしまいました」
「楽しかったから、構わないわ」
扉が閉まると、イツモアが姿を現した。
さっきまで空いていた場所に、見慣れた姿がある。
「お疲れ様でございます」
「イツも。ずっと歩いてたんだよね。座ったら?」
イツモアは空いている椅子ではなく、僕の隣を見た。返事をする前から、行き先は決まっている。
「では、お隣に」
近い。
空いている椅子はいくつかあるのに、わざわざ僕のすぐ隣へ来る。
でも今日は、その気配が見えるだけで少し落ち着いた。
僕は残しておいた包みを差し出した。
「これ、イツの分」
イツモアは包みと僕の顔を交互に見た。
「……私に?」
「通りでは渡せなかったから。冷めちゃったけど」
冷めた包みを渡すのが、急に申し訳なくなった。けれど、受け取る彼女の指は、温かいものに触れるようにそっと動いた。
「いえ。ありがとうございます」
彼女は両手で受け取り、そっと持ち直した。
伏せた睫毛の下で口元が緩む。
「お店の前で、三つと仰った時から、気になっておりました」
「じゃあ、分かってたんだ」
包みの端を整える手が、一度止まる。僕が選んで持って帰った事まで、大切に受け取ってくれているのだろうか。
「はい。ですが、こうして渡していただくのは、また別でございます」
露店で買った食べ物一つだ。
けれど、持って帰ってきてよかった、と思った。
シェリルがお茶を用意しながら、包みへ目を向ける。
「通りでは、渡したくて仕方なかったものね」
「うっかり、何もないところへ差し出すところだった」
イツモアも僕の失敗しかけた場面を覚えていたらしい。笑うより先に、包みへ目を落として考えた。
「受け取る事はできましたが、お店の方を驚かせてしまいますね」
「食べ物が消える怪事件だ」
想像してしまった。店主の目の前で、焼き物だけが空中へ消える。僕達の旅に、新たな怪談が付くところだった。
「それでは、次から売っていただけないかもしれません」
イツモアは真剣に言い、包みを開いた。
僕とシェリルは顔を見合わせて笑った。
一口食べた彼女は、少し考えるように目を伏せた。
「中に、香草が入っておりますね。薄い生地で包んでから焼いているのでしょうか」
「料理する人の感想だね」
一口目から製法を考えてしまうらしい。彼女が少し照れたように僕を見るので、ついこちらまで頬が緩んだ。
「美味しい、と申し上げるのが先でした。ありがとうございます」
「いや、その話も聞きたい。イツなら作れる?」
包みの中から香草の匂いがふわりと上がる。次は作った人の顔を見ながら食べられるのか、と想像したところで、シェリルもこちらを見た。
「材料が揃えば、試してみたいと存じます」
「では、私も味見に参加させてね」
シェリルが三つのカップを置いた。
温かさが喉を通って、腹の辺りへ落ちていく。通りの音は窓を挟むと遠くなり、カップを置く音の方がよく聞こえた。
「イツには、あの街、どう見えた?」
彼女は少しだけ、返事を待った。
「人も荷車も多く、見通せない場所が沢山ございました。護衛としては、気を抜けません」
やはり、見ているものが違う。
「でも、それだけ?」
「……香りのよいお店もございました。カイ様が足を止められなかった通りに」
僕が見ていない店も、彼女は覚えていた。そこまで聞くと、護衛の目で選んだ食べ物も知りたくなる。
「それ、先に教えてほしかったな」
「お食事のお店を、すべてご案内していては、日が暮れてしまいますので」
シェリルが声を立てて笑った。
「次に来る時は、イツに道を選んでもらいましょう」
「じゃあ、僕はお腹を空けておく」
イツモアの背筋が、少しだけ伸びた。護衛以外の用事を任せられたのが、嬉しそうに見えた。
「承知いたしました」
彼女の返事は、さっきより少し弾んでいた。
「明日は、いつ出るの?」
「朝食の後を考えているわ。イツ、道の確認は?」
彼女は窓の外ではなく、今日歩いた道を思い返すように目を伏せた。知らないうちに確かめてくれていた事が、返事の中にいくつもある。
「宿の方へ伺いました。大きな迂回の知らせはございません。途中の休憩所も使えるそうです」
「ありがとう。では、その予定で」
二人の間では、僕が店を見ている間にも旅の準備が進んでいたらしい。
「僕は、荷物をまとめておけばいい?」
「ええ。それと、明日の分の飲み水を。こちらの袋を使っていただけますか」
イツモアが空の袋を渡してくれた。
僕は受け取り、荷物の横へ置く。
僕の分だけではなく、三人で使うものだった。
それが少し嬉しい。
「次は、カウガだったよね。学術都市」
「ええ。学院や図書館もあるわ」
まだ見た事もない街なのに、頭の中では大きな本棚と、難しい顔で杖を振る先生が並び始める。
「また楽しみが増えた?」
「かなり。次の街では、依頼も受けてみたい。それと、魔法を使えない人がどうやって暮らしているのか、調べたいな」
イツモアが包みを畳む手を止めた。
「お困りなのは、道具を使う時でしょうか。それとも、お仕事を選ぶ時?」
「……両方かな。僕だけなのか、ほかにも似た人がいるのか、まだ分からなくて」
僕が困っている事を、彼女は勝手に決めない。二つに分けて尋ねてもらうと、自分でも少し整理して話せた。
「では、その方たちが使う道具も、見てみたいですね」
彼女は僕のカップへ少しお茶を足した。
全部を解決すると言うのではなく、一緒に見たいと言ってくれる。
その方が、今の僕には話しやすかった。
「私も知りたいわ。使える力が違えば、選ぶ方法も違うでしょうから」
シェリルが続けた。
僕は頷いた。
窓の外では、通りを行く人の影が長く伸びている。
もう少し、この街を見ていたかった。
けれど、明日はまた知らない場所へ行ける。
初仕事は、お預けになった。
それでも今日は、登録証と、街の匂いと、いくつかの知らない名前が手に入った。
僕は残りのお茶を飲み、荷物をまとめる為に立ち上がった。
「イツ。水を入れるところ、どこだっけ?」
「廊下の奥です。私も食器を返しますので、ご一緒に」
シェリルが、自分のカップも盆へ置いた。
「お願い。私は明日の道を、もう一度見ておくわ」
三人とも、少しずつ違う事をする。
それを持ち寄って、明日の旅が始まる。
僕は水袋を持ち、イツモアと部屋を出た。




