第23話 青いカップ
翌朝、目が覚めてまず最初に思い出したのは、協会で突きつけられた換金額の差だった。
起き上がって頭を振る。考えても仕方ない。失った分は戻ってこないし、これからは協会を使えばいいだけの話だ。ポジティブに行こう。
ダンジョンの居住エリアはいつも通りの静けさだった。石材の壁に囲まれた10メートル四方の空間は、もう何か月も暮らしているだけあってすっかり馴染んでいる。
テーブルの上に、朝食が用意されていた。焼いたパンと、野菜のスープ。ユキの作る料理は見た目も味も安定していて、毎朝ありがたい。
「おはようございます、ご主人様。」
キッチンの方からユキが現れた。白銀の長い髪が揺れる。蒼い瞳がこちらを見て、かすかに目元が和らいだ。
「おはよう。いつもありがとうな、ユキ。」
「いいえ。当然のことですので。」
表情はほとんど変わらない。だが、その「ほとんど」の中にある微細な変化を、最近は少しだけ読み取れるようになってきた気がする。
朝食を食べながら、昨日の出来事を振り返った。翠嶺洞でひかりという新人攻略者を助けたこと。魔石の換金で損をし続けていたこと。協会に行って生存確認されたこと。ひかりからパーティーの申し出を受けたこと。
「ご主人様、何か考え事ですか?」
「いや、昨日のことをちょっとな。」
「昨日、女の子を助けたと聞きました。」
「あぁ、2層で囲まれてた新人の子だよ。ハヤテが見つけてくれて助かった。」
「そうですか。」
それだけ言って、ユキは自分の分のスープを口に運んだ。
食事を終えた後、ふと思いついた。
昨日、協会の帰りに街を歩いた。何の変哲もない商店街だったが、考えてみればユキはダンジョンの外を知らない。
俺は数か月間、攻略者として外のダンジョンに通い、街で買い物をし、電車に乗り、飯を食っている。それが当たり前の日常だ。だがユキにとっては、この居住エリアと森エリアがほぼ世界の全てだった。
「なぁ、ユキ。」
「はい。」
「今日、外に出てみないか。」
ユキの手が、テーブルを拭く動作の途中で止まった。
「……外、ですか?」
「街に行こう。買い物とか、飯とか。たまには気分転換もいいだろ。」
「ですが、森エリアの管理が……。」
「ハヤテに任せる。基本は自動制御だし、何かあったらハヤテが対応してくれる。」
ユキが黙った。蒼い瞳が、わずかに揺れた。
「……かしこまりました。ご主人様がそう仰るのであれば。」
断られるかと思ったが、意外にもすんなり承諾が出た。もしかしたら、ユキ自身も外に興味がなかったわけではないのかもしれない。
ハヤテは森エリアの入口で翼の手入れをしていた。
「ハヤテ、今日は留守番を頼めるか。」
「了解っす! 任せてくださいっす。ご主人、お出かけっすか?」
「ちょっとユキを連れて街に行ってくる。」
ハヤテの目が丸くなった。俺とユキの顔を交互に見て、にやりと笑う。
「おー、デートっすか!」
「違う。」
「照れなくていいっすよ。」
「照れてない。買い物だ。」
「はいはい。攻略者が来たら自分が対応するっすから、ゆっくりしてきてくださいっす。」
ハヤテが翼を大きく広げてバサバサと振った。上機嫌すぎる。だが頼りになるのは確かなので、素直に任せることにした。
問題は、ユキの外見だった。白銀の長髪と蒼い瞳は目立つが、まだ許容範囲だ。問題は耳。エルダーエルフの特徴である尖った長耳は、さすがに人間社会では目立ちすぎる。
「ユキ、耳は隠せるか?」
「はい。変化の魔法で多少は誤魔化せます。」
ユキが自分の耳に手を当てると、淡い光が一瞬だけ灯った。長く尖っていた耳が、丸みを帯びた普通の人間の耳に変わる。違和感は全くない。
「便利だな。」
「表面的な変化ですので、長時間の維持も問題ありません。」
次は服だ。ユキが普段着ているのは、エルダーエルフの装束をベースにした白と蒼の衣服で、素材も織りも明らかにこの世界のものではない。街中では浮く。
「服は……どうしようか。」
「以前インターネットを教えていただいて、この世界の洋服は把握しています。よろしければ、着替えて来てみても?」
「おお、じゃあ、そうしてくれるか?」
ユキは浴室の脱衣所を使って、すぐに着替えてきた。シンプルな白いシャツと、紺色のワイドパンツ。シンプルな服装、だが……。
戻ってきたユキを見て、少し言葉に詰まった。
白いシャツは少し大きかったが、袖を折り返しているのがむしろ様になっていた。紺のワイドパンツも、ユキの長い脚にはちょうどいい丈になっている。白銀の髪はいつも通り下ろしたままだが、人間の耳と普通の服装のおかげで、異世界感がだいぶ薄れていた。
モデルが何を着ても様になるように、完璧という他なかった。
「……大丈夫そうだな。行くか。」
「はい、ご主人様。」
「外ではご主人様はやめてくれ。目立つ。」
「では、何とお呼びすれば。」
「遥でいい。」
「……遥、さん。」
一瞬の間を置いて、ユキが慣れない響きを口にした。少しだけ、頬に色が差した気がした。
ダンジョンの入口を出ると、初夏の日差しが降り注いでいた。裏山を下り、舗装道路に出る。祖父母の一軒家から最寄りのバス停まで、徒歩で30分ほどの道のりだ。
ユキは俺の半歩後ろを歩いていた。視線があちこちに動いている。アスファルトの道路、電柱、遠くを走る車。そのどれもがユキにとっては初めて目にするものだろう。
「あれは何ですか?」
ユキが指さしたのは、道端の自動販売機だった。
「飲み物の自動販売機。お金を入れるとボタンを押した飲み物が出てくる。」
「……人がいなくても、物が買えるのですか。」
「そうだな。便利だろ。」
「ご主人――遥さんの世界は、不思議ですね。」
自動販売機を不思議がるユキ。なかなかシュールな光景だが、ユキの顔は真剣そのものだった。
バスに乗った。ユキは窓際の席に座り、流れていく景色をじっと見つめていた。田んぼ、住宅街、信号、コンビニ。俺にとっては見飽きた地方都市の風景が、ユキの蒼い瞳にどう映っているのかは分からない。
目の奥に、静かな好奇心のようなものが灯っている。
電車に乗り換え、街の中心部に出た。駅前の商店街は平日の昼間でもそこそこの人通りがある。
予想通り、ユキは目立った。すれ違う人の視線がユキに吸い寄せられていく。男も女も関係なく、思わず二度見してしまう美しさだ。
まぁ、そうなるよな。
ユキ本人は視線に気づいているのかいないのか、表情を変えずに俺の隣を歩いている。
昼食は、商店街の外れにある定食屋に入った。こじんまりとした店だが、味は確かだと以前に見つけた店だ。
「好きなものを頼んでいいぞ。」
メニューを渡すと、ユキは丁寧にページをめくっていた。文字は読めるらしい。異世界の存在だが、召喚の契約が言語の壁を取り払っているのだろう。
「では、これを。」
ユキが指さしたのは、焼き魚定食だった。
「魚が好きなのか?」
「以前、遥さんが買ってきてくださった干物が、美味しかったので。」
覚えていたのか。確かに数週間前、買い出しのついでに干物を買って帰ったことがある。
俺は生姜焼き定食を頼んだ。
料理が運ばれてきた。ユキは一口食べて、また一口食べて、静かに箸を置いた。
「……美味しいです。」
声が、ほんのわずかに柔らかかった。
食事の後、商店街を歩いた。特に目的はなかったが、ユキが足を止めたのは雑貨屋の前だった。店先に並んだカラフルな食器や小物を、じっと見ている。
「気になるものがあるか?」
「いえ、ただ……色が綺麗だと思いまして。」
ユキの世界がどんな場所だったのか、俺は詳しくは知らない。元の世界で過ごした長い時間の中に、こんなふうに雑貨屋の前で足を止める瞬間はあったのだろうか。
「好きなの選んでいいよ。」
「えっ。」
ユキが珍しく声を上げた。
「いいから。日頃の感謝だ。」
少し迷った後、ユキが選んだのは小さな青い陶器のカップだった。蒼い釉薬が光を受けて、ユキの瞳と同じ色に輝いている。
「これ、でよろしいでしょうか。」
「いいよ。」
会計を済ませると、ユキは紙袋を両手で大事そうに抱えた。
夕方になり、帰路についた。
電車の窓から、夕日が差し込んでいる。オレンジ色の光が車内を満たし、ユキの白銀の髪を淡く染めていた。
ユキは紙袋を膝の上に乗せたまま、窓の外を見ている。
「ユキ、疲れてないか。」
「いいえ、大丈夫です。」
少し間があった。
「……楽しかったです。」
「そうか。また行こう。」
「……はい。」
バスを降り、祖父母の家を通り過ぎてダンジョンの入口に向かう。裏山の小道は夕日で赤く染まっていた。木々の間から差し込む光が、地面に長い影を落としている。
不意に、左手に温かいものが触れた。
ユキの指が、俺の手にそっと重なっていた。
見下ろすと、ユキはまっすぐ前を向いたまま歩いている。いつもの無表情に見えた。だが耳の魔法が解けかかっているのか、少しだけ尖った耳の先端が、わずかに赤い。
夕日のせいかもしれない。
何も言わなかった。ユキも何も言わなかった。ただ裏山の小道を、2人で歩いた。ユキの指先は少しだけ冷たくて、でも確かにそこにあった。
ダンジョンの入口が見えてきた。俺がそっちに視線を向けた瞬間、ユキの手が離れた。振り返ると、ユキはいつもの半歩後ろの位置に戻っていて、表情は完全に元に戻っている。
まるで何もなかったかのように。
ダンジョンの中に入ると、ハヤテが翼を広げて飛んできた。
「おかえりっす! 今日は攻略者3人来たっすけど、全員森エリアと物資補給エリアで帰ったんで問題なしっす。」
「助かった。ありがとう、ハヤテ。」
「ユキ先輩、楽しかったっすか?」
「えぇ。有意義な外出でした。」
ユキの返答はいつも通り簡潔で、感情の起伏が見えない。ハヤテは「ふーん」という顔をしたが、それ以上は突っ込まなかった。
居住エリアに戻ると、ユキは買ってきた青いカップをテーブルの上に置いた。キッチンの暖色の明かりに照らされて、蒼い釉薬が静かに光っている。
ダンジョンの中にはなかった色だ。
ユキはそのカップをしばらく見つめてから、棚の一番手前に丁寧に並べた。
「おやすみなさいませ、ご主人様。」
「おやすみ。」
自分のベッドに横になりながら、左手を見た。ユキの指が触れた感覚が、まだかすかに残っている。
あれが何だったのか、俺には分からない。ユキにとって、あの行動がどんな意味を持っていたのかも。
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貯金残高:845,000円 / ダンジョン蓄積魔力:20
スキル:【剣術】Lv.4 / 【身体強化】Lv.3
眷属:ユキ(エルダーエルフ)/ ハヤテ(鷹獣人)
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