第19話 翼の少女
翠嶺洞の深層に足を踏み入れてから、1ヶ月が経った。
7層は、それまでの階層とはまるで別のダンジョンだった。
通路の幅が一気に広がり、天井は見上げても暗闇に溶けて見えない。壁面を覆う苔の発光が青白から翠緑に変わり、空間全体が深い森の底のような色に染まっている。足元の岩肌は湿り気を帯びて滑りやすく、一歩ごとに慎重さを求められた。
そして何より、空を飛ぶモンスターが出る。
ロックワイバーン。体長2メートルを超える飛竜型のモンスターで、灰色の鱗に覆われた身体に、コウモリに似た大きな翼を持つ。竜と呼ぶにはやや格が落ちるが、翼を使った空中機動と急降下攻撃は、地を這うだけの中層の連中とは根本的に異なる脅威だった。
7層に初めて踏み込んだ日のことは、よく覚えている。
天井の暗がりから甲高い鳴き声が降ってきて、次の瞬間には灰色の影が頭上から突っ込んできた。反射的に横に跳んで躱したが、着地と同時に振り下ろされた尻尾が肩を掠め、鎧ごと身体が半回転した。立て直す間もなく2撃目。口から岩の欠片を散弾のように吐き出してきたのには面食らった。火ではなく岩礫。ブレスというよりショットガンだ。
あの日は1体を仕留めるのに15分以上かかった。鎧のあちこちに穴が空き、翌日は全身筋肉痛で動けなかった。
だが1ヶ月も経てば、話は変わる。
前方の暗がりから、聞き慣れた羽ばたきの音。
翠緑の光に照らされて、ロックワイバーンが天井付近から滑空してくるのが見えた。翼を畳んで急降下に入る。狙いは俺の頭だ。
半歩、右に踏む。急降下の軌道は直線的で、一度入ったら修正が利かない。それを最初の1週間で学んだ。ワイバーンの爪が空気を裂く音が耳元を通過し、俺は身体を回転させながら剣を振り上げた。
狙うのは翼の付け根。灰色の鱗が途切れて、薄い飛膜が筋肉と繋がる一点。動く標的の、手のひらほどの面積しかない急所。
【剣術】Lv.4が、刃を導く。
切っ先が飛膜を正確に捉え、裂いた。感触は薄い革を断つようなもので、骨のある部位を斬るのとはまるで違う。ワイバーンが悲鳴を上げて体勢を崩し、壁面に激突した。翼を失ったワイバーンは、ただの鈍重な爬虫類だ。起き上がろうともがく首元に剣を突き立てて、終わり。
【剣術】がLv.4に上がったのは3日前のことだ。
Lv.3で身につけた「斬りたいように斬る」精密さが、さらに一段引き上がった。Lv.4の感覚を言葉にするなら、「動いている急所が止まって見える」。正確には止まっているわけではない。標的の動き、自分の剣の軌道、その交差点が脳裏に浮かぶようになった。それに従って剣閃を振るえば、刃は自然と急所に吸い込まれる。
この感覚を掴んでから、ワイバーンの処理速度が劇的に変わった。飛行中の翼を一撃で斬れるようになり、あとは地上で仕留めるだけ。15分かかっていた相手が、今は1分で片がつく。
【身体強化】がLv.3に上がったのは、その1週間前だ。
きっかけはワイバーン2体の同時遭遇だった。片方が急降下で俺を地面に釘付けにし、もう片方が横合いからブレスを叩き込んでくる連携。避けきれないと思った瞬間、身体が勝手に動いた。スキルが、限界を超えた反応速度を引き出したのだ。地面を蹴って低く跳び、急降下の爪と弾幕の間をすり抜けた。着地した時には全身が熱くなっていて、身体の内側に新しい回路がもう1本通ったのがはっきりと分かった。
Lv.2までは「反応速度の短縮」だったのが、Lv.3になると身体の出力そのものが上がった。踏み込みの速度、剣を振る速度、跳躍の高さ。すべてがワンランク引き上がり、ワイバーンの機動力に正面から対応できるようになった。
足元に転がった魔石を拾う。深層の魔石は中層のものよりさらに大きく、濃い翠色の光を放っている。買取価格は中層の3倍近い。
ポーチの中身を確認する。今日はこれで7個目。そろそろ帰ろう。
翠嶺洞を出て、買取所で魔石を換金した。
帰りの電車の中で、この1ヶ月の収支を頭の中で整理する。
攻略者としての稼ぎは順調だった。深層の魔石は単価が高く、ワイバーンの討伐に慣れてからは1日の稼ぎが7万を超える日も珍しくなくなった。1ヶ月トータルで、翠嶺洞だけで150万近く稼いだ計算だ。生活費を差し引いても十分に黒字である。
ダンジョンの運営も安定していた。口コミが口コミを呼ぶ好循環は続いていて、今では1日に4組から5組が来訪する。リピーターも確実に増えている。運営の売上は月に25万ほど。攻略者の滞在による魔力蓄積も着実に進み、物資の補充と差し引いても、蓄積魔力は毎日少しずつ増えていた。
問題があるとすれば、ユキの負荷だ。
1ヶ月前から課題だった森エリアの自律制御は、結局3組が限界のまま改善されていない。4組以上が同時に来た場合はユキが直接制御に切り替えて対応しているが、その間ユキは森に張りつきになる。来客が増えたのは喜ばしいことだが、ユキにかかる負担は明らかに増していた。
家に着いた。
日が暮れかけた空の下、裏手のダンジョンの入口を横目に玄関の扉を開ける。
「おかえりなさいませ、ご主人様。」
居住エリアでユキが出迎えてくれた。テーブルには夕食の準備が整っている。煮物の匂いが鼻をくすぐった。
「ただいま。今日も7体いけた。」
「お疲れ様です。――お怪我は?」
「ない。もう深層も、だいぶ慣れた。」
ユキが湯呑みを差し出してくれる。受け取って一口飲むと、身体の強張りがほどけていくのが分かった。
夕食を食べながら、ユキに切り出した。
「そろそろ、召喚をやろうと思う。」
ユキの箸が、一瞬だけ止まった。
「蓄積魔力は120。貯金は180万まで回復した。正直、ユキのケースは特殊だったから、どれくらいのコストが適切かはまだ分かっていない。」
「……はい。」
ユキが頷いた。だが表情に、かすかな――何と言えばいいのか、普段とは違う硬さがあった。気のせいだろうか。
「新しい眷属がいれば、攻略者の相手や、ダンジョン全体の監視を分担できる。ユキの負担も減らせる。」
「ありがとうございます。」
丁寧な言葉だったが、声のトーンはいつもより低い気がした。ユキにとって「新しい眷属が増える」ということは、俺との関係に第三者が入ってくることでもある。感情の機微を読み取りにくい相手だが、まったく何も思わないということはないだろう。
だが、それはそれとして、運営上の必要性は明白だ。ユキもそれは理解している。
「コストの配分だが、蓄積魔力から100、現金から100万を充てる。合計で現金換算150万相当。今回の召喚をやってみて今後の判断基準にしよう。」
「妥当な配分かと思います。ダンジョンの防衛力を維持するためにも、蓄積魔力を全て消費するのは避けるべきです。」
「だな。残り20は最低限の保険として取っておく。」
ユキが静かに頷いた。
「明日の朝、やろう。」
「かしこまりました。」
その夜、俺はなかなか寝付けなかった。
前回の召喚で何が出てくるか分からない恐怖と期待を味わったのを思い出す。あの時はユキが来た。満身創痍の、瀕死のエルダーエルフ。結果的にあれは途方もない幸運だったわけだが、次も同じとは限らない。
何にせよ、明日には分かる。
翌朝。
ダンジョンの最奥、コアの小部屋に立っていた。
深呼吸を一つ。
100万円と、蓄積魔力100。俺の手元に残るのは80万円と魔力20。攻略者としての稼ぎがあるとはいえ、決して軽い出費ではない。
目を閉じる。意識を集中させ、コストの支払いを念じた。脳裏の数字が減っていく感覚。現金と魔力が、召喚のための燃料に変換されていく。
そして、呪文を口にした。
「幽世の導に従い来たれ異郷の住人。」
空間が、歪んだ。
前回と同じだ。硬質な何かを引き裂くような音が響き、コアの小部屋の中心に渦が生まれる。渦は回転しながら膨張し、光を帯び始めた。
渦の中心に、影が見え始める。人型――だが、背中に何か大きなものがある。
光が弾けた。
召喚陣の上に、少女が立っていた。
短い少し癖っ毛な茶髪。鋭い金色の瞳。そして背中から伸びる、大きな翼。鷹のそれに似た、茶褐色の羽根に覆われた翼が2枚、召喚の光を受けて広がっている。体つきは引き締まっていて、見た目は16歳くらいだろうか。ユキの「冷たい美」とも、テレビで見る人間の少女とも違う。野生動物のような、素朴さがあった。
少女がきょろきょろと周囲を見回した。金色の目が、俺、ユキ、ダンジョンコア、石壁と順に移動する。
「……ここどこっすか?」
第一声が、それだった。
恐怖も、警戒も、敬意もない。道に迷った学生みたいな口調だ。
俺は一瞬言葉を失い、それからユキの方を見た。ユキは少女を見つめたまま微動だにしない。
――――
貯金残高:800,000円 / ダンジョン蓄積魔力:20
スキル:【剣術】Lv.4 ★New! / 【身体強化】Lv.3 ★New!
眷属:ユキ(エルダーエルフ)/ ???★New!
――――




