97 揺れる花
二学期に入ってから数日、学院の日常は安定していた。
星蝕の観測はほとんどなくなり、学院生が派遣されるようなこともなくなった。
教室に落ちる黒板に向かう教師の声と、紙をめくる音。
ノートを取る手の動きも、馴染んだものになっていた。
それなのに、リネアだけが教室の中で落ち着きどころを見失っている。
午後の授業を終えた頃、板書を書き写していたリネアは、最後の一行を書き終えた。
そのままノートを閉じることなく、ペンを持ったまま少し考え込む。
授業では補助魔術の公式を新たに学んだが、その応用については難解なところがあった。
少し理解しきれていない。
「リネア」
「……うん?」
顔を上げると、クロウがこちらを見ていた。
今この視線に特に深い意味なさそうなのに、妙に構えてしまう。
「さっきのところ、分かったか」
そう言いながら、リネアのノートへと視線を落とす。
自然な動作で身を寄せてくる距離に、息を詰めた。
「えっと、少し分からなくて……」
「応用の箇所か。確かに分かり難かったな」
そのまま、クロウの手が伸びてノートを軽く引き寄せる。
肩が少し触れる位置に座り直されて、距離が固定された。
(……近い)
意識した瞬間、気になってしまう。
けれど、クロウの方はまったく気にした様子がない。
紙面に視線を落としたまま、指先で一行ずつリネアの文字を確かめるように追っていく。
「ここ」
短く言って、ペンの先で一箇所を示す。
「術式は合っているが、値が違う」
「あれ、この参照じゃおかしいの……?」
「この条件だと、値は固定じゃない。もうひとつ計算式がいる」
端的で分かりやすい説明だった。
落ち着いた声がすぐ横で響いて、内容よりも距離の方に意識が引っ張られる。
ノートを覗き込む横顔をちらりと見ると、睫毛の影が思ったより濃く落ちている。
(また……)
そんなことばかり目についてしまって、慌ててリネアは視線をノートに戻した。
「こう?」
「ああ。それでいい」
書き足した式を見せると、クロウは少しだけ目を細めた。
短く頷きとともに、このまま終わるかと思った。
その願いも虚しく、クロウの手は離れずにページをさらに一枚めくる。
次の問題に目を通しながら、当然のように続けた。
「こっちは?」
「え?」
「ついでに見ておく」
断る理由も見つからず、リネアは頷いた。
クロウの手がノートを押さえたまま、再びペン先が紙の上を滑っていく。
一年生の頃は、必要なことだけを短く確認して、それで終わっていた。
今は違う。
理由を探して、留まるように離れないでいる。
それが分かっているから、リネアはただただ落ち着かなかった。
◇
次の授業へ向かう途中、中庭に面した回廊。
クラスメイトたちが歩く流れに乗りながら、リネアは無意識に視線を外へ向けた。
石造りの縁に沿って整えられた花壇が、陽の光を受けて柔らかく色づいている。
今は小さな白い花が見頃だ。
房のように連なって、ふわりと広がる。ひとつひとつは控えめなのに、集まることで柔らかい存在感を作っている。
歩きながら、ほんの少しだけ口元と歩みが緩む。
誰にも気づかれないくらいの変化だった。
「気になるのか」
隣から声が落ちる。
リネアははっとして、クロウの方を向いた。
「え?」
「さっきから見ている」
クロウの視線が、先ほどリネアが見ていた中庭へと向いている。
何気ない自分の視線の動きを、しっかり拾われていたことに気づいて、気恥ずかしくなった。
「……うん。綺麗だなって」
正直に答えると、クロウはもう一度花壇に目を向けた。
「ああいう花が好きなのか?」
問われて、リネアは少し考えた。
「あまり意識したことはなかったけど」
言いながら、もう一度花を見た。白い花房が穏やかに揺れている。
「でも、そうかも。
大きな花より、あんな風に小さい花が集まってるのが好きかも」
言葉にしてみると、妙にしっくりきた。
「なんとなく、かわいいなって」
少し照れくさくなって、視線を逸らす。
クロウは黙って聞いていた。
そのまま一歩分、歩幅をリネアに合わせる。
「砂糖菓子のときも、そうだったな」
「え?」
「淡い色の、小さい花を選んでいた」
思い出して、リネアの頬がわずかに熱を持つ。
「あれは……なんとなく目についただけで」
「そうか」
小さく笑いながら返すクロウの声に、特に含みはない。
ただ事実として覚えているだけのような調子だった。
(覚えられてる……)
些細なことのはずなのに。
あの休暇の日にクロウは、リネアの好きなものや嫌いなものを知りたいと言った。
それが、あまりに素直に実践されていて、動揺する。
クロウはリネアの心の揺れを気にすることもなく、花壇を見た。
白い花。
控えめで、まとまって、柔らかい。
それから視線をまたリネアに戻す。
リネアはアクセサリーのような装飾品をあまり普段身に着けない。
着飾った姿は守夜祭やプロムのときでしかクロウは知らないから、あまり好きではないのかもしれない。
けれど、ああいう小さな花を模したデザインはきっと似合う気のではないか。
例えば髪飾りや、ブローチのようなささやかなものなら。
母や姉にすらそういったものを贈ったことはないクロウだったが、想像してみるのは存外、楽しいことなのかもしれないと小さく微笑む。
「似合うな。そういうのが」
誰に、何が。
言葉は足りないのに、クロウが何を言わんとしているのか理解した瞬間、またリネアの心臓が跳ねた。
「……っ」
「髪飾りにしてもよさそうだ」
言い直す必要もないのに、クロウはそのまま続ける。
そんなことをリネアは考えたこともなかった。
でも、言われた瞬間に浮かんでしまう。
自分の髪に、ああいう花が添えられているところ。
(なんで、そんなこと……)
顔が熱い。
誤魔化そうとしても、まったく上手くいかない。
「に、似合うかどうかなんて分からないよ……」
ようやく絞り出した言葉は、ひどく弱々しかった。
「似合う」
「……」
自分のことではないのに、クロウは妙に自信を持って断言する。
リネアはもう何も言えなかった。
いよいよ居た堪れなくなって、視線を落としたまま、歩調を少し早める。
視界の隅で、小さな花たちが風に揺れる。
言葉のひとつひとつが、そのまま胸に残ってしまう。
中庭を通り過ぎても、しばらくリネアの頬は赤いままだった。




