96 砂糖菓子の味
「リネア、もう行くの?」
寮の廊下で、セラフィナが目を丸くした。まだ部屋着のまま、寝起きの空気をまとっている。
その視線の先で、リネアはすでに制服に着替え、鞄を手にしていた。
「うん、ちょっと……またあとでね」
曖昧に笑って、そのまま足早に廊下を抜ける。
朝の空気はまだ涼しいはずなのに、考えすぎた頭は冷えることなく妙に熱っぽい。
心臓の音だけが、やけに近くにある。
二学期の初日だ。
クロウと顔を合わせるのは、当然のことだった。
同じ学院で、同じ学年で、星約で――隣にいるのが当たり前の相手。
それなのに。
(……まだ、会ってない)
あの日から、一度も。
思い出さない日はなかった。
けれど、何一つ整理はついていない。
だからせめて、と思った。
不意に会うよりは、心の準備をして待っている方が気持ちが楽だ。
そうして、いつもより早く教室へ向かう。
早朝の学院は、まだ人の気配が少ない。
窓から差し込む光が机の列を斜めに切り、床に淡い影を落としている。
窓を少し開けると、少し湿り気を帯びた夏の風が入り込んでいた。
教室には誰もいない。
それだけで、わずかに肩の力が抜ける。
自分の席に腰を下ろすと、隣の空席に、リネアの視線が向いた。
ここに、いずれクロウが来る。
それは分かっているのに、考えただけで落ち着かなくなる。
誤魔化すように鞄を開き、資料を取り出す。
新学期からの授業範囲に目を通しておけばいい。そうすれば他のことを考えずにすむ。
――はずだった。
文字を追っているのに、頭に入らない。
同じ行を何度もなぞっているだけだと気づいてしまう。
紙の白さばかりが、やけに目に残る。
(……だめだ)
そのとき、教室の扉が開いた。
反射的に顔を上げると、リネアの心臓が思い切り、跳ねた。
けれど表情には出さないようにして、リネアはいつも通り扉の方を向いて口を開いた。
「……おはよう、クロウ」
クロウも入口で動きを止めてから、一瞬目を見開いた。
「ああ。おはよう」
なんてことはない、朝の挨拶。
それだけなのに、教室の空気が少し変わった気がした。
クロウはそのまま近づいてきて、自然にリネアの隣へと腰を下ろす。
いつもと同じ距離のはずなのに、なぜか近く感じる。
自分がおかしいだけなのかもしれない。
「リネア」
不意にこちらを向いて、名前を呼ばれた。
心臓がまた、強く鳴る。
「え?」
「資料」
「あ……」
手元を見る。
開いたままの資料の一部が、逆さになっていた。
朝から動揺がそのまま形になったようで、急に恥ずかしさが込み上げる。頬が熱い。
クロウは何も言わず、資料の向きをそっと直した。
その仕草がやけに静かで、余計に意識してしまう。
「……ありがとう」
小さく礼を言うと、クロウはわずかに目を細めた。
「初日から、早いんだな」
「うん。ちょっと早く目が覚めて……」
「俺もだ」
クロウは特に気負った様子もなく、淡々と言った。
少し間を置いてから、わずかに苦笑する。
「……多分、同じ考えだったみたいだな」
「……?」
「休暇明けから初めて会うから、緊張していた」
クロウも、緊張していた。
見抜かれていたことは、妙に恥ずかしい。
それでも落ち着いているように見えたクロウが、自分と同じような気持ちだったのだと思うと、それだけで心が揺れる。
「でも、変に構えるな」
クロウは穏やかな声色で続ける。
「リネアは、今まで通りでいい」
その“今まで通り”が、どこまでを指すのか。
クロウの優しさがあまりに自分に都合がいい気がして、リネアは後ろめたさを感じていた。
「……うん」
クロウもそれ以上は踏み込まず、動揺を隠しきれていないリネアを見て、目元をわずかにやわらげた。
やがて、生徒たちが次々に教室へ入ってくる。
扉の開閉音、椅子を引く音。
久しぶりに交わされる挨拶。
静かだった空間に、音があふれて日常が戻ってくる。
窓から差し込む光は強くなり、教室の空気は少しずつ温度を帯びていく。
それでも朝の名残で、まだどこかひんやりとしていた。
その中、隣にある気配だけが、やけに二人の間で熱を持って鮮明だった。
◇
この日は始業式や簡単なこれからの説明だけで、学院は昼までで終わった。
緊張はしながらも、どうにか平静を保って今日を乗り切れたことにリネアはほっと息をついた。
「セラフィナ、リネア」
雑談しながら帰り支度をしていた二人を、レオニスが手招きする。
そのすぐ横にクロウも立ってこちらを見ていて、リネアはぎくりとした。
「何?」
聞きながら、歩み寄っていくセラフィナがレオニスの手元の箱に目を輝かせた。
「土産だ」
「嬉しい!開けてもいい?」
「もちろん」
そのまま箱のフタを開けて覗き込む。
「わ……すごい」
砂糖をまとった色とりどりの花。
箱の中いっぱいに並ぶ様子は、まるで小さな花畑のようだった。
繊細な細工と、見たことのない鮮やかな色合いに、リネアたちは感嘆する。
「南部の国境沿いまで行ったついでに、クロウと買ってきた」
クロウと並びながら、レオニスがにこやかに説明する。
「どれも、食べられる花らしい」
「かわいい!食べ物じゃないみたい!どれにしよう」
「二人で仲良く分けろよ」
「うん」
セラフィナはすぐにこの花は見たことない、これは美味しそう、とレオニスとあれこれ選び始める。
その賑やかさを前にして、クロウの視線が隣のリネアに向いた。
「どれが好きだ?」
「え?」
「選べ。好きなのを食べろ」
レオニスも笑顔でリネアの方に箱を少し寄せた。
リネアは迷ってから、箱の中に視線を巡らせて、目についた菓子を一つ手に取る。
可愛らしい淡い桃色の花。
「……これ」
「それだけか?」
「え?」
クロウは箱を覗き込み、いくつか取り分けながら包んでリネアの前に置く。
「これと、これも」
「そんなに食べられないよ」
思わず苦笑する。
クロウは一瞬考えるように視線を落とした。
そして、真面目な顔で言った。
「前から思っていたが、リネアはもっと食べた方がいい」
「……え?」
じっと顔を見てから、リネアの手首を軽く掴む。
自分の指が、リネアの手首を一周しても、なお余るのを確認する。
証拠と言わんばかりに、そのままそれを目の前に掲げた。
「細すぎる」
淡々とした口調で、頷いている。
照れも冗談もない、本気の目だ。
リネアの掴まれた手首の脈が、早くなる。
「普通だよ……」
「足りていない」
クロウは譲らない。
それだけ言うと、当然のように菓子をもうひとつ押しやった。
セラフィナがくすくす笑っている。
「クロウ、保護者みたい」
「違う」
即座に否定する、その声色は柔らかい。
手首はすぐに解放されたのに、触れられた部分が熱を持っている気がする。
リネアはまともにクロウを見られなかった。
「今日は、」
空気を変えたくて切り出した声色は、思いのほか、上擦っていた。
「セイルが戻ってきてるはずだから……会ってくるね」
リネアは言い訳のように口にしてから、慌てて荷物をまとめる。
「お土産、ありがとう」
一度だけ振り返ってお礼を言うと、そのまま、逃げるように教室を出ていく。
静かになった教室で、レオニスが吹き出す。
「逃げられたな」
クロウは視線を扉へ向けたまま、息を吐く。
「ああ。……嫌われたと思うか?」
しばらく、考えてからレオニスとセラフィナを見る。
困惑させている自覚はある。
今日一日で何度も、リネアの視線が揺れた。
頬が熱を帯びるのも、目を逸らすのにも気づいていた。
その原因が自分であることも。
「それはないな」
「なぜ」
「嫌な顔をしてたか?」
「……していない」
「なら違う」
壁に軽く背を預けてレオニスは空を見やる。
「嫌われたら、諦めるか?」
「いや」
間髪入れずに否定する。
「“足りなければ、次の手を考える”だったな」
まだ、否定も拒絶もされてはいない。
困るのも、逃げるのも、無関心だからではないはずだ。
それが、思っていた以上に嬉しい。
不思議な感覚だった。
「頼もしいな、参謀卿」
随分と開き直った幼馴染に、レオニスが破顔して笑った。
「ほどほどにしてよ?」
セラフィナが嗜めるようにクロウを横目で見る。
当の本人は、小さく首を振った。
「……それは難しいかもしれない」
今朝、リネアには今まで通りでいいと言った。
変に距離を置かれたくなかったからだ。
だが、自分も同じように今まで通りなのかと問われれば、もとよりクロウには、そのつもりが無かった。
◇
本科棟の研究室が並ぶ廊下は、昼の強い光に明るく照らされていた。
リネアは小さく息を吐いてから、目的の扉を叩く。
「セイル、入っていい?」
「リネア?どうぞ」
中から聞き慣れた声が返る。
扉を開けると、机に広げられた書類と分厚い本が目に入った。
「帰ってきたばかりなのに……忙しそう」
「少しだけね」
机の端には医学書が積まれている。
魔術回路理論の論文の横に、人体構造の図解。
「セイル、医学の勉強までしてるの?」
「うん。いずれ資格を取るつもり」
「研究だけでも忙しいのに……」
「身体と回路は密接だから。両方知っていた方がいい」
そう言うセイルの顔には充実した色があった。けれど、その分だけ、目元には薄く疲れもにじんでいる。
「……私のせいで?」
ふいにこぼれた声は、自分でも思ったより小さかった。
セイルが顔を上げる。
「え?」
「その勉強。研究も、医学も……私のことがあったから、って」
口にした途端、居心地の悪さが胸に広がる。
子供の頃から面と向かっては聞けなかった、薄く引っかかっていたことだった。
家族に、ずっと自分のせいで何かを背負わせてきた気がしていた。
それは、リネアの中で長く消えない負い目だった。
「私が普通に診てもらえないから。もし、それが理由でセイルがそこまでしてるなら……」
そこまで言って、言葉が細くなる。
セイルはすぐには答えなかった。
手元の本を閉じてから、真っ直ぐにリネアを見る。
「影響がなかったとは言えないよ」
その答えに、リネアの肩がわずかに強張る。
「でも、それだけじゃない」
セイルは落ち着いた声で続けた。
「きっかけだったのは確かだ。近くで見てきたから、考えるようになったことも多いし」
そこで一度、言葉を区切る。
「けど、続けると決めたのは自分だよ。好きじゃなければ、ここまでやってない」
決意を含んだ、迷いのない言い方だった。
「回復の恩寵を受けられない人は多いからね。領でもそうだし、外に出ればなおさらだ。
普通の医術をちゃんと学んで診られる人は、絶対に必要だと思ってる」
机の上の医学書に、視線が落ちる。
「父さんや母さんみたいに、領民たちを診られるようになりたいんだ。研究も、そのために必要だと思ってる」
それから、少しだけ表情をやわらげた。
「もちろん、リネアのことを気にしてないわけじゃないよ。君の対価のことにも役立てたい」
その一言に、リネアは思わず息を止める。
「僕も、自分のやりたいこととして選んでるだけだよ」
「……ごめん。変な聞き方して」
「謝らないで。気にするのは、リネアらしいけどね」
セイルはリネアを安心させるように小さく笑う。
少しの沈黙の後、リネアは思い出したように鞄を開け小さな包みを取り出した。
「これ、さっきもらったの。南部のお菓子」
「いいの?」
「たくさんもらったから、お裾分け」
セイルは包みを一つ受け取ると、開いて見せる。
「食用花?東部とは色合いが違うね」
明るい色の砂糖菓子を見て目を瞬かせた。
その横顔を見て、リネアは少し落ち着きを取り戻して頷いた。
なのに、不意にまた今日のことが頭をよぎる。
手首に触れた手や、視線。また頬に熱が集中する。
「……どうしたの?」
セイルの声が柔らかく落ちる。
「え?」
「顔が赤い」
「な、なんでもない」
慌てて否定する。
けれど、否定の仕方が不自然だ。
セイルは静かにそれを見つめる。
ほんの少し前までは、こんな表情はしなかった。
誰かのことを思い出したように、赤くなることも。
砂糖菓子を口に入れる。
甘いはずの味。
それなのに、どこかほろ苦く感じた。
(……そうか)
胸の奥に、ゆっくりと理解が落ちてきた。
少し見ない間にも、リネアの時間は動き続けている。
「甘いね」
そう言って、少し眉を下げて穏やかに呟いた。




