95 綻び
休暇も終わりに近づいた頃、リネアは王都から学院にすでに戻っていた。
生徒の数が減った校舎は音が少なく、日差しだけがやけに濃い。
開け放たれた窓から入る光が、静かな空間の中で白く浮かび上がっていた。
図書棟の上階。
窓際の席に座りながら、リネアは同じページを何度も読み返していた。
文字を追っているはずなのに、意味が頭に残らない。
(……どうしよう)
思考はすぐに、あの日へ戻る。
川沿いの遊歩道。
金色の眼。
夕暮れの鐘の音。
『意味は、伝わっているか……?』
ページをめくる指が止まる。
分からないわけがない。
それでも、リネアは受け取ることも、突き返すことも、あの場ではできなかった。
異性から面と向かってあんな風に言われるのは初めてのことだった。
二学期が始まったら、クロウとどんな顔で会えばいいのだろう。
いつも通りでいられるのか。
あの視線を、また正面から受け止められるのか。
(答えが出ない)
星約として、十分に尊重してもらっている。
それ以上を望んでいい理由なんて、ない。
ここで断ればクロウはきっと、それ以上踏み込まない。
今まで通りでいようとするだろう。
気まずくならないように、星約の解除も考えるかもしれない。
距離を保って、必要以上に関わらないように。
それが、きっと正しい。
そう思うのに。
(でも、本当に守れる?)
届かなかった距離。
何もできなかった時間。
夢と同じように、ただ見ているだけで同じ結末を迎えるのが怖かった。
今のように隣にいなければ、気づけないものがあるかもしれない。
それを、自分から手放してしまっていいのか。
『答えを今、求めているわけじゃない』
今すぐ決めなくてもいい。
クロウはそう言ってくれた。
(……もう少し)
このままでいれば、何か見つかるかもしれない。
間に合う方法が、あるかもしれない。
そう思ってしまう。
これは、言い訳だとリネアも分かっている。
答えを出すことから、目を逸らしているだけだと。
(それでも、あと少しだけ)
完全に断ち切る決断が、リネアにはまだできなかった。
そのとき、小さな笑い声とともに閲覧室の扉が開いた。
リネアがぎくりとして目をやると、知らない男子生徒たちが連れ立って入ってくる。
空席に視線を彷徨わせてから奥へと進んでいく、図書棟ではありふれた光景。
それが、いつかの記憶とも重なる。
――そういえば、一年前の休暇もここで会った。
図書棟の上にある時計塔。
王都から早く戻ってきたクロウが、手土産を持って現れた夜。
バルコニーで並んで飲んだお茶の香り。
またクロウのことを思い出しかけて、リネアが慌てて本を閉じた、そのとき。
「何してるの」
背後から声が落ちた。
驚いて振り向くと、すぐ側でミカが怪訝そうにこちらを見ていた。
「……ミカ」
「百面相してたけど」
静かな指摘に、言葉が詰まる。
「なんでもない……。ミカこそ、神殿は?」
「帰ってきた」
「もう?」
「この時期は大きい祭事もないし、いても何かと押し付けられるだけ。面倒なんだよね」
だから逃げてきたのだと、悪びれなくにこりと笑う。
リネアは笑い返そうとして、上手くできなかった。
ミカが一拍置いて、首をかしげた。
「……何かあった?」
「え?」
「心ここにあらず、って顔」
思わず視線を逸らす。
「何もないよ……」
頬がわずかに熱い。
自覚している分、余計に落ち着かない。
ミカはしばらくリネアを見つめて、それ以上は踏み込まなかった。
「まあ、いいや。ちょっと話せる?」
◇
図書棟の裏に移動すると、強い日差しを避けるようにして木陰に入る。
盛夏を前にしたぬるい風が二人の前を通りすぎた。
「この前の続き。少しあたってきた」
「……聖女の?」
ミカは頷いてそのまま続ける。
「中央神殿にも残ってる古い書物があった。大昔の聖女を題材にした神話とか」
「そんなの、見られるの?」
「見られるようにする。まあ、神話の類なら管理も少し緩いし」
当たり前みたいに言う。
あまり方法については、触れないほうがいい気がした。
「……ありがとう」
「俺も気になってたしね」
「何か、分かった?」
「神話だから、半分は脚色だと思う」
前置きをしてから話し始める。
「先代より前の聖女も、大星蝕の時に力が発現している。
そのきっかけは“負荷”だと書かれていることが多い」
「負荷?」
「外からの圧力。内側の衝撃。追い詰められる状況」
リネアの指先が、わずかに強張る。
「極端な状況ってこと?」
「平穏な日常の中で、突然目覚めるって感じじゃない」
夢の光景がよぎる。
「それって、例えば誰かが……死ぬ、とか?」
「そういうのもあった」
リネアは息を呑んだ。
「でも、それだけじゃないよ。
汚染された故郷を目の当たりにして、とか。失われかけたものを前にして、とか」
夢の中では、クロウの死が契機だった。
けれど。
“特定の誰かが死ぬ”という喪失だけが発現の条件ではないなら。
あれは、クロウじゃなくてもいいのかもしれない……。
そんな思考が一瞬浮かぶ。
(違う)
すぐに首を振って考えを止める。
誰かを犠牲にする前提で、答えを探すなんて。
リネアが望むのは、救うための確証であって、犠牲の条件じゃない。
ミカもその様子を横目で見ながら、考えていた。
聖女の力が生まれるきっかけ。
例えば、強い衝動。
例えば、誰かを失うこと。
それが発端になる。
それは、今回は何になるのだろうか。
リネアの言動の裏にあるものから、薄々分かっている。
「他には何かあった?聖女の……能力の、幅とか。どこまで可能なのかとか」
「そこまでは、触れられてなかった」
少し間を置く。
「ただ、気になったのは別の部分」
「別の?」
「古い神話の冒頭は、どれも似てるんだよ」
ミカは少し視線を遠くへ向ける。
「“世界は綻び続けている”――そんな書き出し」
「綻び……?今の神話や神学書で見たことないね」
「そう。だから目につく」
「何か、重要な意味があるのかな……」
曖昧なまま、問いだけが零れる。
古い神話の語り出しは、大星蝕や聖女に関係があるのか。
繋がりそうな気がするのに、上手く形にならない。
ミカは少しだけ目を細めたが、すぐに肩をすくめた。
「どうだろうね」
肯定も否定もしない返事。
けれど、その目の奥にはリネアの反応を試すような色がある。
ミカが知っていることは、他にももっとあるのではないか。
そう感じながらも、答えてもらえる気がしなくて、リネアはそれ以上は踏み込めなかった。
近づくものの形はまだ見えない。
それでも、時間は確実に進んでいる気配だけはある。
違う時間を刻んでいたはずの針が、ゆっくりと同じ場所で重なろうとしていた。




