94 約束の日
宿の部屋で、リネアはそわそわとしながら窓の外を見ていた。
王都を横切る大きな川は、夕暮れの光を受けてゆるやかにきらめいていた。
観光用の小舟がゆっくりと進み、笑い声が水面を渡ってくる。
リネアは何度目か分からない深呼吸をした。
(落ち着かない……)
今日はクロウとの約束の日。
休暇中はやはり忙しいようで、時間が取れたのは夕刻からのわずかな時間だけだった。
休暇に、ただ少し会うだけ。
それだけのはずなのに。
鏡の前に立って、髪を整え直す。
学院の制服ではない、いつも通りの外出用の服。
特別な装いではないのに、やけに意識してしまう。
約束の時間が近づくと、宿の前に馬車が停まる音がした。
宿の入口で一人立っていたクロウは、いつも通りの表情だった。
「待たせたか」
「ううん、時間通りだよ」
短い言葉。
視線が合うと、心臓が少し跳ねた。
クロウは川の方を見やる。
「今日はあまり時間がない。……少し歩くか」
「うん」
クロウはそう言うと、御者へ短く何かを告げた。
馬車はそのまま宿の前に残される。
そのまま、並んで歩き出した。
◇
宿からすぐの川沿いの遊歩道は穏やかだった。
石畳の道。
並木の影。
舟に乗り込む恋人たちや家族連れの笑い声。
祝祭ほどの賑わいはないが、日常より少しだけ華やいだ空気がある。
遊歩道の途中、船着き場の前を通りかかる。
小さな木造の舟に、二人組が乗り込んでいく。
船頭が櫂を押し出すと、水面が静かに揺れた。
領地の湖でクロウとローウェンの三人で舟に乗ったことを、リネアは思い出す。
ローウェンが大きいから、あのときは舟がやけに狭かったな、とくすりと笑う。
「……乗るか?」
じっと舟の方を見る様子に、クロウが何気なく提案する。
リネアは思わずそちらを見て、それからすぐに視線を逸らした。
「えっと……」
少しだけ間が空く。
あの距離で、向かい合って座る。
逃げ場のない空間。
川の上で、二人きり。
「……並んでる人も多いし、歩こう」
「そうか」
クロウはそれ以上は無理に誘わなかった。
「ローウェン殿には会えたのか」
「うん。忙しいみたいだけど元気だった」
休暇中のこと。
セラフィナやレオニスのこと。
最近読んだ本の話。
いつもと変わらず会話は進む。
不思議と静かな時間だった。
けれど、本題が見えない状況にリネアの内心はざわついていた。
もしかしたら、言い難い話なのかもしれない。
そう考えて、リネアから切り出すことにした。
「……あの、クロウ。今日は、どうして……?」
「どうして?」
「何か話したいことがあったんじゃないかと思って。……もしかして、星約のこと?」
リネアは今日の約束について、ひとつの可能性を考えていた。
波は引いていても星蝕の観測は続いている。
クロウはますます家門の一員として実務的な対応を求められているようだった。
星約の見直しは半年に一度で、もうすぐ始まる二学期の半ばにある。
クロウはリネアのことを星約として認めてくれているかもしれない。
それでも、ノクエル伯爵家の人たちが同じ考えとは限らない。
家に見合う能力や家格の釣り合う相手を、と考えられてもそれは仕方がないことだった。
クロウが意外そうに目を瞬かせた。
「星約?」
「もし、解除のことなら――」
「違う」
言い終わる前に、焦りの混じったいつもより強い声色で否定された。
少し驚いて、リネアは呟く。
「……そうなの?私、てっきり……」
なら、どうして?
リネアは困惑する。
見ないふりをして押し込んでいた、他の可能性が浮き上がってくる。
クロウの顔を見ることができなくなって、足元ばかりに目をやってしまう。
そのままどちらも話さずに、しばらく無言で歩く。
やがてクロウが、言葉を探すように呟いた。
「……ここに来る前、悩んだ」
「え?」
「どこに行けばいいか」
唐突な話題に、リネアは顔を上げて瞬きをした。
「馴染みの本屋や王宮の図書室に行くことも、考えた」
淡々とした口調。
けれど少しだけ迷いが混じる。
「だが、それ以外が思い浮かばなかった」
川面を見ながら続ける。
「リネアが本をよく読むのは知っている。甘いものが好きで、家族とも仲がいいことも。
だが……他は、まだ案外知らない」
その言葉に、リネアの目の奥が揺れた。
「十分だよ」
思わず言う。
「クロウは、星約としても……支えてくれてるし信頼もしてる。
これ以上、望むことなんて」
最後は少し曖昧になる。
“これ以上”をはっきりしないままにするための言い方。
クロウは歩みを緩めて、視線だけわずかにリネアへ向けた。
「それでは足りない」
クロウは首を横に振る。
静かに、はっきりと。
「そう思うのは、星約だからでも、友人だからでもない」
川の音が強くなる。
「リネアが何を見て、何を考えているのか。
何をが好きで、何を嫌うのか」
金の瞳が真っ直ぐにリネアを捉える。
その視線は確かに熱を帯びていた。
「それを知りたいと思っている」
リネアの足が止まる。
声色の穏やかに反して、逃げ道がどんどん塞がれていくような気がした。
「意味は、伝わっているか……?」
ほんのわずかに、言葉を置き去りにしたような顔。
これも初めて見るクロウの表情だった。
いつからか変わった視線や言葉の温度。
近くなった距離。
今日、会う約束を交わした意味。
(どうすれば……)
リネアにとって五歳の夢を見始めた日から、クロウは確かに特別な存在だ。
それは、恋とは違うものだった。
でも今は、クロウの言葉や行動のひとつひとつにリネアも心を揺らしている。
誤魔化し続けていても、それは否定できない。
けれど、リネアを支配するのは足元から水が体を這い上がってくるような冷たさだった。
夢。
大星蝕。
対価。
自分は、この先もクロウの隣にいられる人間ではない。
未来を考える余裕なんて、ないはずなのに。
言葉が、出なかった。
「答えを今、求めているわけじゃない」
クロウはその沈黙を見てとると、静かに言った。
優しいのに、揺るがない声。
「知っておいて欲しかっただけだ」
クロウの静かな微笑みの先、川の向こうで日没の鐘が鳴った。




