93 二つの時間
休暇に入って数日後。
リネアは昼前からローウェンに会うため、王都の王宮へと向かっていた。
石畳の道には荷馬車が行き交い、役人たちの足音が忙しなく響いている。
穀倉庁の建物は王宮の一角にありながら、装飾は控えめで実務を優先した造りだった。
入口で来訪を告げると、衛兵が中へ取り次ぐ。
ほどなくして――
「リネア!」
聞き慣れた声が響いた。
建物の奥から大股で歩いてくる大きな影。
次の瞬間には、ローウェンが目の前に立っていた。
「よく来た!」
そのまま遠慮なく肩を掴まれる。
「元気そうだな!怪我はないな?」
「だ、大丈夫だよ」
上から下まで確かめるような視線に、リネアは少し困ったように笑った。
「心配したんだぞ。セイルから聞いてな」
随行派遣のことだ。
分厚い手紙の内容を思い出して、思わず苦笑する。
「手紙、びっくりした」
「そりゃあ心配もする。無茶はしてないか?」
「してないよ」
ローウェンはしばらくじっと顔を見てから、ようやく満足したように頷いた。
「よし!顔色は悪くない」
周囲の役人がその声にちらりと視線を向ける。
リネアは少しだけ恥ずかしくなって視線を逸らしたが、ローウェンはまるで気にしていない。
「ちょうど休憩だ。昼はまだだろ?」
「うん」
「なら行こう」
有無を言わせない調子でそう言うと、そのまま建物の外へと歩き出す。
穀倉庁のすぐ近くにある店は、王宮勤めの貴族が利用する店らしく、落ち着いた雰囲気だった。
簡素だが質の良い調度と、行き届いた給仕。
窓際の席に案内されると、ローウェンは椅子にどかりと腰を下ろす。
「セイルは元気か?」
「うん。研究所の仕事で、今は学院を離れてる」
「忙しいな、あいつも」
豪快に笑う声に、リネアの肩の力が少し抜ける。
「で、学院はどうだ?落ち着いたのか」
料理を待つ間、リネアは少し考えてから答えた。
「前よりは。星蝕も、今は波が引いているから」
「……そうか」
ローウェンは短く頷くが、その表情は少しだけ引き締まる。
「こっちもな」
腕を組み、言葉を続ける。
「星蝕の影響で、いくつかの農地がやられてる。土が変質して、しばらく使えない場所もある」
ローウェンは肩をすくめた。
「穀倉庁はその対応で走り回ってる。どこまで復旧できるか、今が正念場だ」
運ばれてきた料理に手をつけながらも、その声に悲観はない。
「まあ、なんとかなる。植物は強いからな」
にかっと笑う姿に、リネアの胸が明るくなる。
その後も、学院生活のことを矢継ぎ早に質問されて話しているうちに、時間はあっという間に過ぎていった。
「無理するなよ」
店を出た別れ際に、ローウェンが言う。
「何かあったら、すぐ言え。俺でも、セイルでも」
「うん」
リネアが頷くと、ローウェンはその頭を軽く撫でた。
「よし。顔見られて安心した」
太陽みたいな笑顔。
それだけで、胸の奥の緊張がほどけていく。
「休暇もちゃんと休め。リネアは、考えすぎるところあるからな」
図星を突かれて、リネアは曖昧に笑った。
ローウェンが穀倉庁へ戻っていくのを見送り、リネアはゆっくりと歩き出す。
学院も。
王都も。
今は少しだけ穏やかに見える。
けれど、完全に安心はできない。
胸のどこかで、静かな不安は消えないままだ。
それでも、今日は家族の声を聞き、笑って話せた。
それだけで、心は少し軽くなっていた。
◇
ローウェンと別れてから、リネアはそのまま王都の中央区を歩いていた。
記憶を辿るように細い路地に入ると、やがて見覚えのある建物の前に行き当たる。
(……あった)
看板のない書店。
春暁祭の夜、クロウに連れて来られた場所。
小さくノックして扉を押すと、乾いた紙の匂いがふわりと鼻をくすぐった。
「いらっしゃいませ」
奥から、白髪の店主が顔を上げる。
リネアを見ると、柔らかく微笑んだ。
「おや、今日はお一人で?」
「はい。こんにちは」
静かな店内は、あの日と同じ空気だった。
自然と視線が、奥にある細い螺旋階段へ向く。
「古書を見に上がってもいいですか?」
「もちろんです。前のお席も空いておりますよ」
店主に促され、リネアはゆっくり階段を登った。
最上階の二人掛けの古いソファ。
今日は窓から昼過ぎの高くなった陽が差している。
腰掛けると、自然に隣の空いた場所が目に入る。
――あの日。
手を引かれてここまで来た。
窓から差し込む朝の光。
隣にあった温度。
思い出そうとしたわけではないのに、記憶は静かに浮かんできた。
やがて店主がお茶を運んでくる。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
湯気の立つカップを置きながら、穏やかな目をリネアに向けた。
「ノクエル様のご学友ですか?」
「はい。えっと……星約で」
小さく背筋を伸ばす。
「リネア・フォレストと言います」
店主は笑みを深くした。
「そうでしたか。星約」
頷きながら続ける。
「子どもの頃から気づけばよくいらしてましたけど、お連れ様は初めてでしたから」
リネアは目を瞬かせる。
「そうなんですか」
「ええ。あの方は、ここではいつも一人でしたよ」
どこか懐かしそうに細められた目。
「だから、少し嬉しくて」
店主は柔らかく微笑みのまま、階下へ降りていった。
残された静けさの中で、リネアはそっとカップを持ち上げる。
クロウが、一人でここに来ていた時間。
本を読み、考え、誰にも邪魔されず過ごしていた場所だったのかもしれない。
そこに自分がいたことを、急に不思議に思う。
(どうして、連れてきてくれたんだろう)
窓の外に視線を向ける。
あの日は、距離が近すぎて落ち着かなかった。
今思い返しても、胸がざわつく。
『……少し、会えないか』
休暇前に交わした約束のことも思い出す。
クロウと会うのは明日の予定だ。
理由は聞けていない。
でも、断れなかった。
カップの縁を指でなぞりながら、そっと目を伏せる。
これ以上考えない方がいい。
切り替えるように立ち上がると、リネアは時間をかけて、古書の棚を見て回った。
神話。
宗教史。
古い観測記録。
聖女に関する記述がありそうなものをいくつか手に取る。
けれど、この間のように神殿の刻印があるものはない。
どれも曖昧な比喩ばかりで、知りたい核心には届かない。
(……やっぱり、簡単には見つからない)
それでも気になった数冊を選び、会計のためにカウンターへ向かった。
◇
本が包まれるのを待つ間、ふと目が止まる。
机の上に、開かれた懐中時計が置かれていた。
少し変わった形だ。
文字盤の中央には針が二組。
短針と長針がそれぞれ二重に重なり、違う速さで進んでいる。
「珍しいでしょう?」
思わず見入っていたリネアに、気づいた店主が微笑んだ。
「本と一緒に買い取ったものなんですよ」
「本と?」
「ええ。……そうだ、あなたがこの間買った本と同じ時に」
リネアは小さく目を見開く。
「触って見ても?」
「どうぞ」
そっと持ち上げると、金属はひんやりとしていた。
耳を近づけると、微かに異なる二つの刻む音が重なって聞こえる。
「……どうして針が二つずつあるんですか?」
店主は肩をすくめる。
「何百年も前の聖女信仰の産物らしいですよ」
「聖女……」
「遅く進む針が人の時間。
早く進む針が、大星蝕の時間の理を表しているとか」
リネアは時計をじっと見つめる。
「人間と、大星蝕では……時間の進み方が違うんですか?」
「さてね」
店主は思い出すように天井を見上げた。
「とても古い神学書に、似た話があった気もします。
人の理と災厄の理は同じではない、と」
そして少しおどけたように続けた。
「まあ、何にせよ――この時計では時間は分かりません」
リネアも小さく笑って、そっと時計を返した。
◇
店を出て大通りに出ると、午後の光が石畳に落ちていた。
腕の中には、数冊の本。
胸の奥には、まだ整理できない感情。
違う速度で進む針。
人の時間。
大星蝕の時間。
そして――
この場所で思い出す、誰かの横顔。
答えは、まだ見えない。
けれど、何かが少しずつ近づいている気がした。
リネアは本を抱え直し、ゆっくりと歩き出した。




