91 凪
星蝕の報告は、さらに減っていた。
軍の人員体制も徐々に立て直され、学院への随行派遣はひとまず落ち着きを見せている。
一学期の短期休暇も近い。
生徒たちの間には、ようやく安堵の空気が戻りつつある。
随行派遣の翌日、再び休養日を与えられたリネアは、学院の中をひとり歩いていた。
中庭。
講義棟の周囲。
寮へ続く回廊。
気配を探るように視線を巡らせる。
けれど、異変らしい異変はない。
空気は穏やかで、魔力の流れも安定している。
(……何もない)
それが逆に落ち着かない。
小規模な星蝕は、いまは波が引いているように見える。
観測記録にも法則性はない。
――神殿が把握していて、公にしていないものがあるかもしれない。
そう思うと、安心することもできなかった。
休養日とはいえ、派遣のなかった生徒たちは学院での待機扱いで、通常通りに近い授業や演習を受けている。
遠くから聞こえる掛け声。
休憩時間のたびに緩む空気。
賑やかな日常の音。
その中を一人歩いていると、自分だけ時間の流れからずれているような気がした。
一通り確認を終え、リネアは人の気配の少ない場所へ足を向ける。
校舎から離れ、演習地へ続く小さな道。
初夏の風が乾いた草を揺らしていた。
そこで、見覚えのある姿を見つける。
「ミカ」
駆け寄ると、相手がゆっくり振り返った。
ミカも先に派遣先から帰って、まだ休養中のはずだたった。
いつものようでいて、やはり顔には疲れが滲んでいる。
「また見回り?真面目だね」
「どうしても、気になって……。ミカはちゃんと休めてる?」
「まあ。でも、寮だとガイのいびきが俺の部屋まで響いてくるんだよね」
リネアは小さく笑ってから、少しだけ表情を改めた。
「ちょっと、ミカに聞きたいことがある」
「なに?」
「聖女について、少し調べてるの」
古書の話をする。
前代の聖女。
力が発現した瞬間の記録。
大星蝕との関係。
「聖女の力って、どうやって生まれるのかなって。大星蝕とどこまで因果があるのか」
そして、聖女の力が及ぶ範囲に確証が欲しかった。
「……発現の因果、ね」
「もしかしたら、神殿に資料があるんじゃないかって」
「あれ、また祭服着たくなった?」
リネアも悪い子になったね、と茶化してくる。
反論をする前に、ミカはすぐ表情を切り替えて首を振った。
「聖女の資料は、ちょっと難しい」
道端の石を軽く蹴る。
「資料室にまったくないわけじゃない。記録も一応はある」
「本当?」
「でも、せいぜい神殿所属後の浄化履歴とか、儀礼記録とかその程度」
少し間を置く。
「個人情報に近いものは、別。俺も見たことないから、中央神殿の外で管理されてるのかも」
中央神殿よりさらに上となると、王宮神殿や大神官の管轄になっている可能性が高い。
リネアは少し落胆した。
難しいことは分かっていた。それでも、どこか期待していたのだ。
けれど、ミカに無理をさせるわけにもいかない。
夢の詳細は自分の、誰にも話していない事情だ。
だからこそ、ふと口をついて出た。
「夢のこと、」
ミカが視線を向ける。
「少しだけ神殿に話して、中から探せる可能性があるなら……」
言い終わる前に、空気が変わった。
「やめたほうがいい」
今までで一番低い声だった。
リネアは目を瞬かせた。
「前にも言ったけど」
ミカはゆっくり言葉を選ぶ。
「神殿は、優しくないよ」
その瞬間、ミカの表情がわずかに遠くなる。
――枷の硬く冷たい温度。
石の床に響く鎖の擦過音。
一瞬だけ過ぎった記憶を、すぐに振り払うように瞬きをした。
「……ミカ?」
「聖女が長く不在で、神殿は焦ってる。
取り込まれたら、戻れない」
声音は真剣さに、リネアは戸惑う。
すぐにミカはいつもの笑みに戻る。
「まあ、そういうことだから。その方法はおすすめしない」
リネアは頷いた。
自分の考えが、どれだけ危うかったのか少しだけ遅れて実感する。
二人の間にぬるい風が吹いて、しばらく沈黙が落ちる。
「……リネアは、五歳のとき」
「うん?」
「鳥に恩寵を使ったって言ってた」
話題を変えたミカの言葉に、リネアは頷く。
守夜祭のときに話した神殿での出来事だ。リネアが、初めて回復の恩寵を使った日。
「なんで?」
「……なんで、って?」
「何か特別な理由があった?」
リネアは少し考える。
もう十年以上も前の話で、記憶は少し朧げになっている。
それでも、あの日恩寵を使ったことに、特別な意味はなかったはずだ。
動かない小さな鳥への、子供心ながらの憐れみだった。
「偶然中庭で見つけて、ただかわいそうだなって。
本当にたまたまだったと思うけど……」
それがどうかしたのか、とリネアは首をかしげる。
ミカは答えられなかった。
あまりにも、軽い。
理由もなく。
覚悟もなく。
何かに、導かれたわけでもなく。
ただ目の前にあったものを、救っただけだ。
善良で、当たり前のような優しさ。それがいっそリネアらしくもある。
どういう順序で、何が噛み合って、 あのとき何が起きたのか。
ミカの中で断片は、もう揃いつつあった。
でも、今それをリネアの前に並べて、答え合わせをする気にはなれない。
それをしたところで――救いにはならない。
ミカはわずかに視線を逸らす。
リネアは、何も知らない。
自分が何を引き起こしたのかも、何を背負ってしまったのかも。
五歳の日と同じように、今も救える目の前のものに、ずっと手を伸ばしているだけだ。
その無自覚さが、ほんの少し刺さって、消しきれない後味の悪さが残る。
ミカはそれを押し込めるように、息を吐いた。
「そっか」
思考をそこで止めて、ようやく短く返す。
リネアもまた別のところに考えがいってるらしく、目の奥が不安げに揺れた。
「大星蝕に何か関係あることだった……?」
「さあ。俺も知らない」
あっさり、そこで切る。
“知らない”の言い方が、どこか意図的に軽くてリネアは眉を寄せた。
「……ミカ、本当は」
問い詰める言葉を遮るように、遠くで演習の号令が響いた。
続きは拾わずに、ミカは肩をすくめる。
「どのみち、もうすぐ短期休暇だしね」
少し空を見上げる。
「聖女の資料の件は俺も、少しあたってみるよ」
「いいの?」
「中央神殿で見れる範囲だけどね」
リネアはほっと息をついた。
「……ありがとう」
言いたいことはまだありそうな表情だった。
それにミカは気づかないふりをして、笑って歩き出す。
彼女と自分、どちらが始まりだったのか。そこに、大した意味はないだろう。
起こってしまったことは、もうどうしようもないのだから。
そう考えるしかないとミカは結論づけた。
波は引いた。
けれど、静かな海ほど、底が見えないこともある。




