90 できることを
休養日が明けた朝も、学院はすでに慌ただしかった。
多発していた星蝕の報告は減り始めている。
ただ、完全に消えたわけではなく、波のように引いてはまた現れる。
落ち着いたかと思えば、どこかで新たな歪みが観測される。
その繰り返しに、軍も学院も対応を緩めることができないでいた。
リネアは人の流れを避けるように歩きながら、小さく息を吐いた。
――結局、ミカには会えなかった。
中庭で交わされていた会話が、まだ耳に残っている。
『ミカ?』
『ガイたちと今日の朝から派遣されたみたいよ』
『休み中に通知が来たって。容赦ないよな』
クラスメイトの言葉が耳に残る。
休養期間は同じはずなのに、もう次の観測地へ。
干渉の恩寵は便利だ。再派遣が軍側か、神殿や本人の意思なのかは分からない。
きちんと休めたのだろうか、と考えかけて――
すぐにその余裕もなくなった。
リネアたちにも、新たな随行派遣の指示が降りる。
人里から離れた観測地で、収束後の後処理が主な任務。
帰ってきたばかりなのに、と不満を漏らす者もいる。
だが、随行派遣で星蝕の被害を目の当たりにして、卒業後に王立軍への志願を考える生徒も増えたようだった。
リネアは静かに演習服の袖を整える。
夢の中で見た制服とは違う。
その事実にだけは、少しだけ胸の奥が軽くなった。
◇
観測地には他のクラスの星約たちと同じ馬車で向かった。
幕営地へ着いた頃には、星蝕そのものは収束して瘴気も弱まっている。
残っているのは、星蝕から生まれた散発的な魔物だけ。
軍の討伐隊がそれを処理し、学院生は後方支援へ回る。
魔物と瘴気を一定範囲から出さないための結界の維持と補助。
怪我人もほとんどいない。
前回とは違う、静かな任務だった。
作業の合間、休憩していた兵士がリネアへ声をかけた。
「学院生だよな」
「はい」
言葉を選ぶように間を置いてから、兵士は続ける。
「ロゼ家の令嬢が、前の観測地に来たって」
リネアは小さく頷いた。
「触れずに広範囲へ恩寵を使えるって、本当か?」
「……はい」
兵士は感心したように息を漏らす。
「そうか……本当に、聖女みたいだな」
軽く笑って、それだけ言うと持ち場へ戻っていった。
この観測地に来てから、同じようなやりとりが何度かあった。
セラフィナの特異な恩寵は王立軍の中でも広がっているようで、聖女と重ねる者も多い。
もし、リネアの夢が正しければ、これから彼女は本当の"聖女"になる。
休養日中に読んだあの古書。
前代聖女も恩寵の力が発現前から強かったと記されていた。
それも、聖女になるための条件なのかもしれない。
「……俺らって何なんだろうな」
「言うなって。セラフィナ嬢が特別すぎる」
すぐ側で作業していた学院生の、声をひそめた話し声が耳に入ってくる。
違うクラスの、回復の恩寵を持つ生徒たち。
彼らの気持ちは、リネアにも分からないでもない。
セラフィナのことを、誇らしいと思う。
友人として、それは本心だった。
それでも、その凄さを目の当たりにするたびに、わずかに胸の空洞が広がるような感覚になる。
神に愛された聖女と、忌み子。
真逆の場所に立っている二人。
劣等感がないわけではない。
けれど、今のリネアの中にあるのは劣等感だけではなかった。
焦り。
セラフィナすら夢の中で、手が届かなかったもの。
逃れられなかったクロウの死。
足りないものを、自分はあとどれだけ積み重ねればいいのだろう。
答えはまだない。
手を止めるわけにはいかなかった。
リネアは意識を戻し、目の前の術式へ集中する。
流れを整え、繋ぎ、わずかな歪みを拾い上げていく。
◇
リネアが結界の確認を終えた頃、士官との話を終えたクロウは少し離れた位置からその様子を見ていた。
魔力の流れを確かめる指先。
細かな調整を繰り返す視線。
派手さはない。
地道で、丁寧で、確実に積み上げていくようなやり方だった。
それを、クロウは知っている。
演習でも派遣先でも何度も見た。
周囲が気づかないところでも、最後まで手を抜かずにやりきることを知っている。
兵士とのやりとりも、聞こえていた。
――聖女みたいだな。
その言葉に、リネアの指先がほんのわずかに止まったのを、クロウは見逃さなかった。
すぐに何事もなかったように作業へ戻る。
いつも通りの顔と、いつも通りの返事。
ほんの一瞬だけ落ちる影。
クロウは静かに近づいた。
「終わったか?」
リネアが顔を上げると、虚をつかれたような間があった。
クロウの姿を確かめて、安心するような表情。視線はどこか遠い。
まるで――ここではない場所にいる誰かを、同時に見ているような。
「うん、ちょうど」
それだけのやりとり。
あの小さな神殿で踊った夜のことは、互いに触れなかった。
本当にあった出来事だったのか。
時々分からなくなるくらい静かに、日常の中に紛れていく。
しばらく並んで、結界の外を見た。
遠くでは討伐隊が戻ってくる。
「……前より、落ち着いてるな」
「そうだね。波が引いてきてる感じ」
クロウが言うと、リネアは小さく頷く。
その声は穏やかだった。
一歩だけクロウは距離を詰める。
立つ位置は近づいたはずなのに、どこか別の場所へ向いているような気配だけが、消えない。
大丈夫か。
その言葉が喉元まで上がってくるのを、飲み込んだ。
聞けば、リネアはきっと笑って言うだろう。
――大丈夫。
それは、何度も繰り返してきたやりとりだった。
だから、もう聞かない。
代わりに、見る。
疲れていないか。
無理をしていないか。
笑い方が少しだけ違わないか。
それらを掬い上げられるように隣に立とうと決めた。
クロウは視線を前に向けたまま、ぽつりと言った。
「……レオニスの側にいると、自分が足りないと思うことがある」
リネアが少し驚いたようにこちらを見る。
「え?」
「昔からだ。あいつは変わらずに強い」
苦笑が混じる。
「届かないものがあると思うのは、別にお前だけじゃない」
リネアは何も返さない。
けれど、わずかに肩の力が抜けたのが分かった。
リネアについて、聞きたいことも、知りたいこともたくさんある。
だけど、まずはきちんと見ていたい。
見落とさないように。
「幕営地に戻ろう」
「うん」
指先が微かにリネアの袖に触れた。
体温が伝わるほどではない。
それは、彼女がすぐ隣にいるのだと確かめるような動作だった。
◇
数日で派遣は問題なく終わる。
帰還した学院の中庭は賑やかだった。
「すごかったんだって?」
「本当に聖女みたいだったって聞いた!」
セラフィナの周りには、同級生たちが集まっている。
次々と飛ぶ声に、セラフィナは困ったように笑っていた。
「大袈裟だよ」
明るく返しながらも、少しだけ視線が泳いでいる。
その時、人混みの向こうにリネアを見つけたセラフィナが、表情をやわらげた。
「ごめん、ちょっと!」
輪を抜けて、小走りでこちらへ来る。
「リネア!帰ってきてたんだ」
「うん、さっき」
セラフィナはほっとしたように息をついた。
「よかった。無事で」
近くで見ると、いつものセラフィナだった。
明るくて、優しくて、少しだけ慌ただしい。
どんな称賛の中にあっても、彼女は真っ直ぐな人だ。
「大変だった?」
「ううん、星蝕も収束していたから。後方支援で落ち着いてたよ」
セラフィナはリネアの顔を覗き込む。
「ちゃんと休んでね」
「平気だよ、大丈夫」
「ほんと?」
セラフィナも随行派遣で疲れているはずなのに、今もリネアのことを本気で心配してくれている。
念を押すような真剣な声に、リネアの胸が暖かくなる。
「うん。ありがとう」
その笑顔を見て、セラフィナも安心したように笑った。
「セラフィナ!」
「あ、行かなきゃ」
背後から名前を呼ばれると、少し名残惜しそうに一歩下がって手を振る。
「またあとでね」
「うん」
セラフィナは再び人の輪へ戻っていった。
リネアはその背中を見送りながら、静かに息を吸う。
届かないものは、きっとこれからもたくさんある。
ただ手を伸ばすことをやめずに、自分にできることをやり続けるしかない。




