89 希望
随行派遣の休養日に入ってから、リネアはほとんど部屋を出ていなかった。
体の奥に残った対価の重さは、数日では抜けきらず、ふとした拍子に鈍い痛みとして浮かび上がる。
誰かと顔を合わせる余裕もなく、ただ静かな場所に身を置いていた。
窓の外では、いつも通り学院の時間が流れているはずだった。
訓練の掛け声や、生徒たちの笑い声。
けれどそれらは遠く、ここには届かない。
同じ場所にいるのに、少しだけ切り離されているような感覚があった。
ベッドの上には本や資料が広げられている。
星蝕の観測記録。
古い神話。
聖女にまつわる伝承。
最近は、その二つを並行して読んでいた。
聖女に関する記述は、どれも曖昧だった。
奇跡。祈り。神の祝福。
どれも比喩ばかりで肝心の“仕組み”には触れていない。
まるで、核心だけを意図的にぼかしているかのようだった。
ため息をつきながらページを閉じる。
そのとき、視線が机の端へ向いた。
包み紙にくるまれたままの一冊の本。
春暁祭の日に買った古書だった。
あの日、内容も確かめずに手に取った本。
持ち帰ってからも、開くことなく、そのままにしていた。
――開いてしまえば、あの日の感情までほどけてしまう気がして。
曖昧に蓋をしていたものが、形を持ってしまうのが怖かった。
しばらく眺めたあと、リネアは指先を伸ばした。
しばらく眺めたあと、リネアはそっと包みを解いた。
紙の音が、小さく部屋に響く。
現れたのは、想像以上に古い装丁だった。
擦り切れた表紙には、かすかに聖女らしき人物の絵が残っている。
少し躊躇いがちにページをめくる。
そこに書かれていたのは、前代の聖女についての記録だった。
彼女の周囲にいた人々が残した手記の抜粋。
記録としての体裁を保とうとした、珍しい本だった。
◇
――前代の聖女が現れたのは、今から二百年前。
幼い頃から強い恩寵を持ち、人格者で気高い少女だったとある。
聖女と認められたのは、大星蝕の際。
それまでどんな恩寵でも浄化できなかった災厄を、彼女だけが終わらせた。
力は――過去の聖女と同様に時間干渉だった。
対価はない。神からの特別な贈り物。
力の発現以降、彼女は神殿に所属し、各地で小さな星蝕が起きれば浄化して回った。
平和の象徴として讃えられ、やがて有力貴族と結婚し、穏やかな生涯を終えたと記されている。
そこまで読んで、リネアはページをめくる手を止めた。
幸福な結末。
けれど、どこか空白が多い。
結婚相手の記録はぼやけていて、現在に繋がる家門もはっきりしない。
子どもに関する記述も、一切なかった。
違和感はある。
けれど、それ以上の情報はどこにも書かれていなかった。
◇
リネアが何度も読み返したのは、別の部分だった。
――聖女の力が発現した瞬間。
記録によれば、そのときも大星蝕が起きていた。
聖女はもともと戦闘系の恩寵を持ち、前線で戦っていたという。
だが、歪みはあまりにも大きく、どんな力も通じなかった。
仲間は次々と倒れ、戦線は崩れる。
彼女自身もまた、退路を失い、絶望の中にいた。
その絶望の中で――力が変質した。
記録にはこうある。
“浄化というより、元に戻っていくようであった”
“世界の歪みが、なかったことにされたように見えた”
そして、次の一文が目を引いた。
“生ある者は元に戻ったが、すでに死した者は戻らなかった”
ページを持つ指が強くなる。
死は、戻せない。
時間の理の外にある。
聖女は万能だと語られるものばかりだった。
こんな記述は初めてだった。
リネアの脳裏に、夢の光景が浮かぶ。
崩れる学院。
叫び声。
白い光。
倒れていた者はいた。
傷を負っていた者も。
けれど――
「……クロウ」
唇から小さく名前が漏れる。
あの夢で、命を失っていたのは一人だけだった。
もし聖女の力が、記録通りのものなら。
死ななければ、戻せる。
胸の奥に、細い光が差した気がした。
絶望ではなく、希望。
初めて、夢の意味が少し変わる。
大星蝕が起こっても、救えるかもしれない。
◇
最後のページを閉じかけた時、指先に違和感が触れた。
巻末の隅に、かすれた刻印がある。
インクはほとんど残っていないその印にリネアは見覚えがあった。
守夜祭の日。
神殿でミカと一緒に見た、資料室の本に押されたものとよく似ている。
「……どうして」
ただの古書ではないのかもしれない。
リネアは本を抱え直す。
希望を見つけたと言うには、まだ根拠が足りない。
でも、わすわかな手がかりは確かにここにある。
神殿の、非公開の記録。
そこに触れられる可能性がある人物が、一人だけ浮かぶ。
ミカ。
以前のように頼れるかどうかは分からない。
それでも、もう少しだけ知りたい。
希望を、希望のままで終わらせたくない。
リネアはそっと本を閉じた。
胸の奥に灯った光はまだ小さく、頼りないほどにか細い。
それでも、確かに前を向いていた。




