80 焦燥
二年生になってかは、演習での教官の指示は抽象的になった。
「状況判断を優先しろ」
「星約間の役割分担は任せる」
――自分たちで決めろ、ということだ。
明らかに変わった演習の質。
乾いた砂の匂いが残る演習地に、薄く張られた結界が、陽光を受けてゆらめく。
足元には無数の踏み跡が重なり、何度も繰り返された連携の軌跡を残している。
「左から来るぞ」
クロウの短い指示の声。
それに合わせてリネアは迷わず魔術を展開して、クロウの動きを補助する。
矢が風を裂き、標的が崩れた。
もう、ほとんど説明はいらない。
視線と呼吸だけで、二人は動けるようになっている。
終了の合図が鳴り、場に張り詰めていた緊張が一気にほどけた。
「……終わったな」
弓を下ろすクロウの腕に浅い裂傷が一本走っていた。
小さな傷だが、薄く血が滲んでいる。
「見せて」
リネアがそう言うと、クロウは一瞬だけ視線を伏せた。少し、迷う。
ここ数日――
恩寵を使ったあとのリネアの顔色が、どうにも気になる。
「これくらいは、」
言いかける。
けれどリネアはすでに手を伸ばしていた。
「平気。すぐ終わるから」
声に押されるように、クロウは手を差し出してリネアの手を握る。
手と手が触れた瞬間、彼の指がわずかに動き、自然に包む形になる。
光がにじみ、傷が塞がる。
それより先に、リネアの視界がわずかに揺れた。
(……早い)
胸の中でわずかに痛みが走る。
以前ならもう少し後だったはず。
魔力回路を雑に扱ったせいだ。
(集中、できていない)
一瞬、息が詰まるのを気づかれないように押し殺す。
「大丈夫か?」
「うん」
訝しむクロウに、笑って答える指先が少し冷たい。
それでもリネアの頭の中は、別のことでいっぱいだった。
――ミカと話さなきゃ。
数日前にもらった資料。
あの日は持ち帰って、あれから何度も慎重に照合し直した。
夢と一致する観測記録。
ここで遅れたら、何かがずれる気がする。
「リネア?」
呼ばれて、はっと顔を上げる。
「……なんでもない」
そう答えながらも、視線は無意識に人の流れを探していた。
演習場から校舎へ戻る生徒の列の中に、見慣れた背を見つける。
いた。
軽い足取りで歩きながら、クラスメイトと笑顔で話している。
焦りが先に走った。
体の重さを無視して、人の間を抜ける。
「ミカ!」
思わず服の裾を掴む。
ミカが振り返る。
「……おっと。どうしたの?」
息がわずかに乱れていた。
「あとで、話せる?」
声が思ったより切羽詰まっていた。
胸の奥がじわじわ痛む。
でも今、止まるわけにはいかない。
ミカはその様子にわずかに眉をひそめた。
「いいよ。この間の場所?」
リネアは少し安心して頷く。
手を離した瞬間、背中に視線を感じる。
振り向くと少し離れた場所で、クロウがこちらを見ていた。
表情は変わらない。
けれど、さっきまで手の中にあった温度が消えたような、静かな距離があった。
「……先に、行ってる」
短い声。
それだけ言って歩き出してしまう。
リネアは胸の痛みを押さえるように息を吸った。
歩き出す足が、ほんの少し重い。
◇
教室に戻る途中、クロウは無意識に自分の手を握りしめていた。
さっきまで触れていた掌。
小さくて柔らかい、少し冷えていた指先。
二年になってから、恩寵を使ったあとのリネアの呼吸が短くなった気がする。
去年の一時期にも、同じようなことがあった。
だから、傷を癒してもらうことにも躊躇した。
恩寵の対価には個人差がある。
蓄積しやすい者もいれば、ほとんど感じない者もいる。クロウは後者だ。
貴族である以上、対価の程度を家門の外にわざわざ漏らすべきではない。
だから、リネアに少し疲れが出やすい傾向があることは、あえて指摘しないでいた。
それに、彼女は魔術でそれを補っているはずだった。
魔力回路の扱いは丁寧で、無理に押し切るタイプでもない。
本来はここまで表に出るはずがない。
演習の強度は上がっている。
連携も複雑になり、恩寵を使う機会も少し増えた。
理由はいくつでも並べられるのに、何かが噛み合わない。
説明はできる。
だが、納得がいかない。
考えかけて、止める。
それでも今日、躊躇いながらも手を伸ばしてしまったのは自分だ。
そして、その手はあっけなく離れて、別の誰かの服を掴んでいる。
ミカと何を話すのか、自分には聞く理由がない。
だけど、気になってしまう。
理由のつかない違和感よりも、そちらの方がはっきりと輪郭を持っていた。
(演習より難しいな)
そんな馬鹿なことを考えてしまう。
それとは別にリネアの恩寵については思考は止めたはずなのに、どこかで引っかかり続けていた。
◇
図書棟の裏で、リネアは壁に背を預けるように座り込んでいた。
この数日の演習で対価が蓄積しているのだろう。膝を抱えて呼吸を整えているその顔色はあまり良くない。
本人は隠せているつもりでも、ミカはリネアの魔力回路の歪みを知っている。すぐに原因に結びついてしまう。
「前線の星約、向いてないんじゃない?」
からかいに寄せた声色だった。
リネアは目を瞬かせて、それから何でもないように、そうかな、と笑って流す。
ミカと同じで、リネアもこういう笑い方だけは上手い。
「大丈夫。ちょっと集中できてなかっただけ」
「そう」
ミカはそれ以上を追わない。
追えば答えが返ってくるとは限らない。返ってきたとしてもどうともできないことなどいくらでもある。
「資料、ちゃんと照合した。やっぱり過去の予兆と近い気がする」
リネアはすぐに本題へ入った。
膝の上の紙束を押さえる指先が、わずかに強張っている。
乾いた紙の角が陽が反射して、白く光った。
「小規模な星蝕が増える。
最初は散らばって……でも、渦を巻くみたいに発生地へ寄って頻発していく」
言葉を選びながら、リネアは頭の中で地図を引いている。
視線が遠い。本を読み耽るときの目——そして、夢の話をするときの目に近かった。
「神殿はそれを“予兆”だと結論づけられないように、報告を間引いたり順番を入れ替えたりして隠してきた。
……やり方も傾向も一致してる」
紙を一枚めくる。指の動きがらもつれて少し固い。
「今はまだ初期中の初期。
でも……大星蝕の予兆だと思う」
断言に、迷いがない。
いつものリネアなら「可能性」という言葉を残す。
でも今日は、それを置かなかった。
「で。リネアの見立てでは、いつ起こる?」
ミカは、わざと素っ気なく聞いた。
返事は、即座に返ってくる。
「二年以内」
春の風に蔦の影が揺れ、石壁にこもった温度が少しだけ薄くなるように感じた。
二年。
資料だけで読める幅より、確実に踏み込んでいる。
「……断言するね」
ミカの口元に、笑いが浮かぶ。
その声色には牽制と面白がる色が混ざる。
「夢のせい?」
リネアは一拍置いて、頷く。
「夢の中に……知ってる顔が、出てくる」
「へえ。それ、誰?」
「……」
リネアは答えない。視線を落とすだけだ。
隠す気があるのに、その目は明らかに揺れていた。
真面目で、不器用だな、とミカは思う。
「……そこまでの札は、まだ見せてくれないわけだ」
ミカが肩をすくめると、リネアは眉を下げた。
「いいよ。あまり信じないのは賢明」
冗談めかした声音にした。
だけど、その言葉は冗談だけではない。
リネアは紙束を抱え直した。
不安だらけの顔で、遠いところを見ている。真っ直ぐで、危うい。
「起こる。……起こるなら、最小限にする方法を考えないと」
その視線が誰に向いているのか、ミカにはだいたい察しがつく。
重すぎる対価。
それがバレるリスクを背負ってまで、リネアが前線の位置にしがみついているのは不自然だった。
義務や栄誉だけでは説明がつかない。
誰の近くにいるためか、考えれば自然と浮かぶ顔がある。
セラフィナ、レオニス、そして——クロウ。
神殿に伝えれば、暴くのは簡単だ。
リネアの身の保証に配慮しなければ、夢の内容も、顔の正体も、手荒に引きずり出せるだろう。
けれど、そうすることで何かがズレて、ミカの目的から逸れる結果になる可能性もある。
「ミカ……」
しばらくして、リネアがこちらを向いた。
ほんの少しだけ、申し訳なさそうに。
「なに?」
「今みたいに、時々話してもいい?考えが合ってるか意見が欲しい」
許可を取りに来るような言い方に、面食らう。
頼るのが下手で、頼った瞬間に奪われることを知っているみたいな声音。
他人との関係性が希薄なミカにとって、利用されるのではなく、こんな風に誰かに切実に頼られることは初めてだった。
それに妙なむず痒さを少し感じてしまう。
「いいよ」
「ありがとう」
ミカは頷く。軽く、いつも通りに。
ただし、と喉の奥で言葉が引っかかった。
(あまり、信じすぎないで)
ミカにも目的はある。ずっと昔から。
それが良いことなのか悪いことなのか、リネアにどう捉えられるかは分からない。
「……焦らずいこう。倒れたら元も子もない」
「うん、気をつける」
ミカは蔦の影の揺れに視線を逃がした。
言葉の裏で、リネアはきっと走る。
誰かのために。
そしてミカ自身もまた、走らせてしまう側の人間だと知っていた。
止める言葉を持たないのではない。
持っていても、使わないだけだ。




