78 春暁祭 後編
太陽の位置が高くなり、空はもうすぐ完全な朝を迎えようとしている。
窓の向こうで王都の屋根を照らす光が、白く澄んでいく。
リネアははっと我に返る。
「……セラフィナたちと合流しないと」
クロウが窓から視線を戻す。
「ああ」
名残惜しむ様子はない。
けれど、急ぐ様子もない。
階段を下り始める直前、リネアの視線がふと本棚を滑った。
指が勝手に動く。
内容も確かめず、薄い一冊を引き抜く。
「買うのか」
「……うん」
本当は、何を手にしたのかもよく見ていない。
階段を一段ずつ降りながら、リネアの鼓動はまだ落ち着かない。
一階に戻ると、店主に礼を言って会計を済ませた。
外へ出ると、朝の空気は少し冷たい。
「持つ」
クロウが当然のように本に手を伸ばす。
「……大丈夫」
リネアは本を両手でぎゅっと抱え込む。
しっかりと、掌をふさぐように。
クロウの視線が一瞬だけそこに落ちる。
それ以上は、何も言わない。
「行くぞ」
今度は手を取らずに、並んで歩くだけ。
それでも距離は、夜より近い気がした。
◇
王城の城壁へ続く階段は、この日だけ解放されている。
普段は立ち入れない歩廊。
高い石壁の先に、王都の街並みが広がる、日の出がよく見える場所だ。
二人が着いたとき、
ちょうど城壁の階段から降りてくる影があった。
「二人とも!」
セラフィナが手を振る。
「遅いよ!」
「……ごめん」
息を整えながら答える。
レオニスは静かに二人を見比べた。
「迷子は見つかったようだな」
「見つけた」
クロウが淡々と頷く。
「もうっ!日の出に間に合わなかったじゃない」
頬を膨らませたセラフィナがクロウを睨む。
「"あとで向かう"と言った」
しれっと言い切る。
セラフィナが口を開きかけ、閉じる。
「……もう、いいわよ」
呆れと諦め半分ずつ。
レオニスがその隣で、小さく肩をすくめた。
「そろそろ行進の準備だ。俺たちは向かわないとな」
今日の昼過ぎからは王立軍の行進が始まる。華やかな音で楽隊が先導し、王都を歩くパレードだ。
レオニスとクロウは、その采配に駆り出されている。
「私も、行進まで帰って少し寝るわ……」
セラフィナにも夜通し遊んだ疲れが、今になって現れていた。
数日後には、またすぐに学院が始まる。
簡単な別れの言葉のあとに、自然な流れで解散が決まった。
馬車に乗るセラフィナを見送ったあと、クロウとレオニスは王城の内側へと歩いていく。
その背中に朝日が当たって照らされて、眩しさにリネアは目を逸らした。
◇
王城から宿までは近い。
それでもリネアはそのまま戻る気にもなれず、中央神殿に向かった。
春暁祭の朝の祈りは、王都でも特に重要な祭儀だ。
神殿に着くとすでに早朝にも関わらず、人が集まり、厳かな緊張に包まれている。
夜通し賑わっていた街とは別世界のようだ。
鐘が鳴る。
高く澄んだ、真っ直ぐな音が神殿に響く。
広間の入口の扉がゆっくりと開き、いつもより華やかな祭服に身を包んだ神官見習いたちが、先導して列を成して姿を現す。
その中――先頭近く。
リネアの視線が止まる。
装飾が多く、金糸の縁取りが施された祭服。
若い神官見習いの中では明らかに目立つ位置。
背筋を伸ばし、迷いのない歩みで進む青年。
「……ミカ」
思わず、小さく声が漏れる。
整えられた装いに、いつもの軽口や笑顔もない。表情は静かで、真剣だ。
手には金の燭台。
日の出の光を受けて炎が揺れる。
――面倒な役目。
手紙の意味が、ようやく分かる。
中央へ進み出ると、彼は祭壇前で膝をついた。
祈祷の言葉が唱えられる。
声は、よく通る。
神官見習いたちも祈祷で夜通し起きていたはずなのに、一切の揺らぎがない。
神殿に集う人々の視線が集まっても、堂々としている。
知っている顔なのに、知らない人のようでもある。
学院とは違う、これは彼の別の顔だ。
祈りが終わる。
燭台の炎がゆっくりと掲げられ、春の光が神殿内部に差し込む。
人々が頭を垂れる。
ミカは一瞬だけ、顔を上げた。
視線が群衆を流れて、――止まる。
リネアと目が合った、その刹那。
わずかに、口元が歪んだ。
次の瞬間には、完璧な神官見習いの表情に戻っている。
祭列が退場して、そのまま儀式は続いて行く。
リネアは本を抱えたまま、神殿の外へと踵を返した。
◇
外に出て、神殿の裏手に回り込むと先ほどの祭列の一行を見つけた。
すぐに列は分かれて散って行く。
「ミカ」
声をかけると、白い祭服の裾が揺れた。
振り返った顔は、もう先ほどの厳かな神官見習いのものではない。
「……来たんだ」
露骨に眉を寄せる。
「あんまり見られたくなかった」
小さく舌打ちするように言う。
さっきまであれほど堂々としていたのに。
「どうして?立派だったのに」
本心からの言葉だった。
声も姿勢も、誰よりも迷いがなく、あの場に立つにふさわしい人に見えた。
ミカは少しだけ黙る。
それから、肩をすくめた。
「神様を信じてるみたいで、嫌じゃん」
軽い調子。
冗談みたいな顔。
「俺、信心深いタイプに見える?」
「……見えない」
思わず正直に返してしまう。
「でしょ」
けれどその顔には、ほんの少しだけ影がある。
「リネアも、まさか祈りに来たわけじゃないよね?」
さらっとしてるようで棘のある問い。
――忌み子なのに?
言葉にはしない。
でも、そういう意味だ。
「……ううん」
リネアは本を抱え直す。
「ミカを見に来ただけ。
もしかしたら、いるかもって」
特別な意図はない。
本当に、そう思っただけだ。
ミカが少し言葉に詰まる。
視線がわずかに逸らして、すぐ戻す。
「……へえ」
いつもの、軽い笑い。
「物好きだね」
でも、その笑いは半拍遅れていた。
すぐに切り替えるように、裾を払う。
「今日はこのあと、まだまだ忙しい。
行列の整理と、午後の祈祷補助とか」
「大変だね」
「最悪だよ」
苦々しい顔をしてから、少しだけ真面目な目になる。
「リネア。学院が始まったら、話したいことがある」
「……話?」
「うん」
短い。
それ以上は言わない。
「分かった」
何かあったのだろうか。
資料室でのあの仮説。
五歳のときの話。
それとも、今日の祭儀のこと。
浮ついていた気持ちに、冷たい水が一滴落ちて波紋を作る。
春暁祭の喧騒はまだ続いている。
でも、季節は確実に進んでいる。
リネアのたちも、もうすぐ二年生だ。
学院での時間も、止まらない。
「じゃあね」
ひらひらと手を振って、ミカの白い背中が人波の中へ戻っていく。
夜の出来事が、夢だったみたいに遠い。
春の光が、足元に影を落としていた。




