77 春暁祭 中編
リネアは、混乱していた。
人波を抜けたあとも、クロウは歩みを止めなかった。
セラフィナたちと合流する様子もない。
露店の前でふと、足を止める。
木製の小さな的に、輪を投げて引っかける簡単な遊びだった。
「やるか」
「え?」
「簡単だ」
すでに硬貨を置いている。
リネアの反応を一度だけ見てから、輪を手に取った。
「……やったことない」
「やれば分かる」
手渡された輪を持って、リネアは少し迷う。
その様子をクロウは黙って見ていた。
リネアは距離を測るように目を細めて、そっと投げる。
外れる。
「あ」
「力が足りない」
「今のは距離が――」
言い訳しかけて、言葉を飲み込む。
もう一度。
今度は少し強めに。
弾かれて、やはり外れた。
「難しいよ、これ」
「そうか」
クロウは一つ輪を取る。
ほとんど狙いもつけずに投げたそれが、すっと的に収まった。
店主が小さく感心した声を出す。
そのまま、ちらりとリネアを見る。
「こんなものだ」
「……ずるい」
「同じだ」
「違うよ」
リネアは少しだけムッとして悔しくなる。
三度目は深呼吸してから投げた。
輪が、かろうじて引っかかる。
「……入った」
嬉しくなってパッと振り返ると、クロウもわずかに口元を緩めて頷いた。
その反応を見てから、小さな子供のようにはしゃいでしまったことに、リネアは一気に気恥ずかしくなる。
そのあとも、二人でそのまま露店をいくつか見て回る。
飴細工の前で足を止める。
透き通った色の飴が、細い棒の先で器用に形を変えていく。
「飾り物みたい……」
思わず声が漏れる。
クロウはそれを一瞥してから、「すぐ溶けるぞ」とだけ言った。
「夢がない」
そう返しながらも、リネアも少し笑ってしまう。
そのまま、古い地図を扱う店を覗き、異国の香辛料の匂いに眉を寄せる。
普通に会話をする。
普通に歩く。
普通のはずなのに、まったく普通ではなかった。
いったん離れたはずの手も、人の波が押し寄せるたびに、気づけば取られる。
迷いなく、掌がしっかり重なる。
学院や演習では何度も二人きりになることはあった。
恩寵を使うために触れるのも当たり前だった。
演習、恩寵、星約だから。
今は違う。
誰も見ていない。
目的もない。
ただ――離れないように、という理由だけ。
胸の奥が落ち着かない。
クロウはそれに気づいていないようで、時折こちらを見るだけだ。
「疲れたか」
「……ううん」
本当は少し疲れていた。
訳がわからなくて、心臓の音だけがやけに早い。
瞬間ごとに、上がり下がりする自分の心についていけないままだ。
じっとリネアの顔を見てクロウは少し思案する。
すぐに周囲を一度見渡し、何かを決めたように、また手を引いて歩き出した。
◇
「こっちだ」
「え?」
大通りから一本外れた、静かな路地。
祝祭の灯りはあるが、人は少ない。
そこに、他よりもひときわ細長い建物があった。
看板はない。
扉の横に、控えめな鉄の紋章がひとつ。
「……ここ?」
「入るぞ」
重い扉を押す。
中は、外の喧騒が嘘のように音がない。
狭い室内の天井まで届く本棚。
紙とインクの香りに、静かな空気。
「ノクエル様」
奥から白髪の店主が顔を出す。
「お久しぶりでございます」
「ああ」
短いやりとり。
その中に顔馴染み同士の親しみがある。
「お連れ様とは珍しい。いつものお席は、空いておりますよ」
店主は眼鏡の奥で目を細めて、柔らかく微笑んだ。
クロウは頷くと、慣れた様子でリネアを連れて細い螺旋階段を上がって行く。
一階は新刊らしき書物が整然と並び、二階、三階へ上がるごとに装丁は古くなっていく。
四階では古書ばかりになり、紙の匂いが濃くなる。
最上階の五階はさらに狭く、天井が低い。
どれも他の書店では見ないような珍しい分野の専門書ばかりだ。
最上階まで登ったさらに奥。
二人掛けの古いソファと小さなテーブルが並んでいた。
すぐ横には控えめな窓がある。
クロウは当然のようにそこへ座った。
リネアも隣に座るよう促される。
「ここは……」
「子供の頃から来ている」
壁一面に並ぶ古書。
背表紙は擦り切れているものもあるが、大切に扱われてきたのが分かる。
「レオニスもセラフィナも知らない」
「……隠してたの?」
「二人の興味を引く本が、ここにはない」
言いながら、どこか満足そうだ。
店主が微笑んで茶を置く。
「ごゆっくり」
そして静かに階下へ消えた。
――二人きり。
沈黙が落ちる。
ようやく解放された手を、リネアは膝の上で守るように組んだ。
(どうしよう)
鼓動がうるさい。
「どうした?」
クロウがリネアを覗き込む。
「少し、混乱してる」
つい本音が漏れた。
「何がだ」
本気で分からない顔をする。
その無自覚さが、リネアを余計に混乱させる。
「……さっきから、ずっと、」
言いかけて止める。
その先をリネアはうまく言葉にできない。
クロウは首をかしげるだけだ。
かすかに聞こえる外の音楽が、遠くで弱まっていく。
リネアが諦めたように窓の外を見る。
夜が深まりはほどけて、やがて遠くの空が薄くなり始めていた。
「その窓は、東向きだ。日の出がよく見える」
祝祭の灯りが、少しずつ意味を失っていく。
空が群青から薄紫へ変わる。
外を見ているはずなのに、隣にクロウの肩があるのが気なって仕方がない。
距離は近い。けれど触れていない。
夜が終わる。
王都の屋根越しに、光が滲んだ。
最初の一筋が差した瞬間、窓辺が黄金色に染まる。
クロウの横顔に光が落ちる。
夜とは違う表情。
柔らかく、眩しい。
リネアの胸が、静かに締めつけられる。
ここは、彼の場所。
幼い頃から通った、セラフィナとレオニスも知らない隠れ家。
そこに、今、自分がいる。
「……綺麗だな」
クロウが言う。
視線は窓へ。
けれど、言葉の温度は近い。
リネアは小さく息を吸う。
逃げないといけない。
捕まる。
それなのに。
朝日が差し込む窓辺で、
並んで座っているこの時間が、
あまりにも穏やかで――
動けなかった。




