74 余韻
翌日の朝も、よく晴れていた。
春先の光が屋敷の壁を照らし、麦畑の若緑がゆるく揺れている。
滞在中ずっと穏やかだった空が、まるで最後まで気を遣ってくれたみたいだった。
門前には、フォレスト家が再び総出で並んでいる。
三日間の短い停留を終えて、クロウたちは本領にへと南下しながら次の視察地へ向かう。
先にレオニスが一歩進んで礼をとる。
「このたびは大変世話になりました。
視察に際し、これほど丁寧に迎えていただき、感謝いたします」
男爵も一礼する。
「こちらこそ。若い方々に我が領を見ていただけたこと、光栄に存じます。
どうか道中、お気をつけて」
形式は整っているが、三日前と比べて空気は固くない。
セラフィナが夫人の前に進み、柔らかく膝を折る。
「奥様、あたたかく迎えてくださってありがとうございました。
とても居心地がよくて……少し帰りたくなくなってしまいましたわ」
夫人がふふ、と笑う。
「またいらして。今度は麦穂が色づく頃にでも」
「ぜひ」
嬉しそうに頷くセラフィナの横で、レオニスが静かに目を細める。
ローウェンはクロウに向き直った。
「クロウ殿」
最後まで、礼は崩さない。
「道中、ご武運を」
「ありがとうございます」
短く、真っ直ぐな返答。
一瞬、視線が交わる。
そして。
クロウはゆっくりと、リネアを見る。
近づきすぎない距離。
「春暁祭で」
低く、いつも通りの声。
リネアは少しだけ瞬きをしてから、こくりと頷いた。
「うん、また」
言葉はそれだけなのに、胸の奥が妙に静かに波打つ。
馬車に乗り込む三人。
扉が閉まり、車輪がゆっくりと回り出す。
セラフィナが窓から身を乗り出し、大きく手を振った。
レオニスがそれを支える。
クロウは、最後まで振り返らない。
麦畑の中を進む馬車は、次第に小さくなっていく。
やがて、丘の向こうへ消えた。
「行ったな」
ローウェンがぽつりと言う。
「……うん」
リネアは、麦の揺れる音を聞きながら小さく答えた。
◇
高位の客人たちが去った翌日、屋敷はいつもの落ち着きを取り戻していた。
あれだけ整然と動いていた使用人たちも、どこか肩の力が抜けている。
応接室の窓は開け放たれ、春の風がゆるくカーテンを揺らしていた。
リネアの部屋では、ハウスメイドが滞在中に使われた花瓶や小物を整えている。
歳が近く、子供の頃から勤めてくれている気心が知れたメイドだ。
「お嬢様、本当にお綺麗になられましたね」
ぽつりと、嬉しそうに言う。
「学院からお戻りになってから、ぐっと」
「……そうかな」
少し照れたように笑うと、メイドはくすくす笑った。
「ええ。でも、あの学友の方々がいらして……皆、納得しておりました」
「納得?」
「お嬢様があんな立派な方々と並ばれても、少しも見劣りなさらないから。
良い影響を、受けたんだろうって」
階下ではもっと率直だったらしい。
――ノクエル伯爵家の方、目が合っただけで倒れそう。
――ヴァレンティ様も……気さくなのに凛々しくて。あれはずるいです。
――ロゼ様なんて本当にお人形みたい。
きゃあきゃあと盛り上がっていた、とメイドは楽しそうに話す。
「もちろんローウェン様やセイル様も素敵ですけど……。やっぱり高位貴族の方は、雰囲気が違いますね」
フォレストの屋敷にああした客人が泊まったこと自体が、ちょっとした事件だったのだ。
リネアは黙って聞いている。
胸の奥で、あの丘の上の光景がよみがえる。
見たことのない、あの微笑み。
心臓が、少しだけ早く打つ。
「でも――」
メイドは声を潜めて続ける。
「やっぱり皆、最後は同じことを言うのです」
「何を?」
「“でも、お嬢様のお隣はセイル様でしょう?”って」
思わず、ぎくりとする。
「小さい頃からずっと一緒ですもの。
領地の者は、皆そう思っております」
当たり前のことのように言う。
そうだ。
ここでは、そうなのだ。
セイルは昔から隣にいて、
家族の延長のように自然で、誰も疑わない。
リネアはそれに、いつも後ろめたい気持ちになる。
この国の貴族は、恩寵の血統を重視する。
自分の大きすぎる対価を知れば、婚姻どころか誰も交友すら結ぼうとは思わないはずだ。
セイルにだって、瑕疵のないまともな相手を選ぶ権利がある。
彼はきっと研究所で結果を出して叙爵をいずれは受けるだろう。
貴族の令嬢に入婿として望まれる可能性もあった。
対価の事情を知っているからといって、自分の相手に選ばれるようなことは、絶対にあってはならない。
結婚は誰ともできない。しない。
学院を卒業したら領地を静かに見守る人生を、リネアは昔から思い描いていた。
階下の少女たちだって、身分ある端正な男性にときめくのは、当たり前。
誰であっても、クロウにあんな顔を向けられたら動揺するはず。
――だから、あれも普通のことだ。
やがて、メイドは部屋を整え終え、満足そうに一礼して出ていった。
一人になった部屋で、リネアはそっと胸元に手を当てる。
普通。
きっと、普通。
でも。
あの時の微笑みは、
どうしてあんなに――
リネアは小さく首を振る。
胸の奥のざわめきを、綺麗に畳む。
考えすぎだと、自分に言い聞かせるように。




