73 雪解けの湖
クロウたちの滞在二日目。
男爵夫妻は完全にリネアに案内を任せる気で、セイルも叔父と叔母の領民の往診に同行して不在だ。
麦畑や水路の管理については、昨日ひとしきり説明し終わっている。
フォレスト領に観光できるような名所は無い。
今日は暖かく天気もよかったので、ローウェンを加えた五人で森の湖へ散策に行くことになった。
籠に軽食を詰め、敷物を抱え、森を進む。
雪解けの森は、光がやわらかい。
地面はまだ少し湿っていて、落ち葉の匂いがする。
枝の間から差す陽が、まだ淡い。
最後方を歩く、ローウェンが声をかけた。
「クロウ殿」
「はい」
クロウは歩調を合わせて足を緩めた。
そのままローウェンと並んで歩く。
「昨日は、形式ばった挨拶しかできませんでしたので。星約として、リネアがいつもお世話になっております」
丁寧な声色には、男爵令息としてではなく兄としての顔を滲ませていた。
「こちらこそ」
クロウも一礼する。
ローウェンは量るように言葉を選んだ。
「妹は、迷惑をかけておりませんか?」
前方ではリネアがセラフィナやレオニスと何かを話している。
その姿を、視界の端に入れながらクロウは静かに答えた。
「いえ、信頼しています。彼女が星約で良かった」
思いがけず、はっきりとしたその言い方に少し驚く。
「そうですか……。前線でやれているのかと、心配しておりましたが」
リネアの回復の恩寵は、分析や観測がほとんどの一族の中でも珍しい。
加えて、対価の問題もある。
前線配置で目立つクロウの星約でいることは、家族の心配の種だった。
クロウがリネアを不足と感じて、手放してくれれば話は早い。
だが、予想外にリネアは上手くやれているようだった。
「ご家族の不安はもっともです。
危険な場に立たせていることは、申し訳なく思っています」
ですが、と続ける。
「今となっては、リネア以外の星約は考えられない」
これは。
妹は、上手くやり過ぎてしまっているのではないか、とローウェンの胸の奥がざわついた。
言い切るクロウの言葉や目の奥に、わずかな熱が見えたような気がする。
それが星約の責務や、学友としての親愛ならば問題ない。
けれど、別の意味なら——。
「ありがとうございます。……兄としては、妹が笑っているならそれで十分です」
どう判断していいかも分からず、ローウェンは満足そうに頷いたふりをした。
◇
前方では森が開け、セラフィナたちから感嘆の声があがる。
「綺麗!」
「これはすごいな」
追いついて目に飛び込んできたのは、雪解け水で満ちた湖。
透き通る薄い水色の湖面を風が渡り、白樺の木が映り込む水面がさざめく。
岸には小舟が二艘、並んで繋がれていた。
木製の素朴な手漕ぎ舟だ。
「夏は皆、ここで泳ぐの」
敷物を用意しながら、リネアが言う。
「でも今はまだ水が冷たいから、舟遊びだけ」
「乗って見たい!いい?」
「もちろん」
即座にセラフィナがレオニスの袖を掴む。
あっという間に一艘へ。
レオニスは苦笑しつつ櫂を持つ。
残る一艘。
自然と、リネアとクロウが近づく。
その瞬間。
「待て」
ローウェンの声。
穏やかだが、はっきりしている。
「クロウ殿」
丁寧に呼ぶ。
「申し訳ありませんが、妹はまだ相手も定まっていない身です」
湖面が小さく揺れる。
「星約といえど、二人きりで舟に乗せるわけにはいきません」
礼儀は崩さずに線ははっきりと引く。
リネアが小さく眉を寄せた。
クロウは星約だし、二人になること自体はそれほど珍しいことでもない。
友人たちの前で家族に過保護にされてる自分を見せるのも少し恥ずかしい。
「セイルとは、よく二人で乗ってたよ」
「あれは子どもの頃だろう。今は違う」
ですから、とローウェンが満面の笑みを作る。
「私が漕ぎましょう!」
◇
湖面をゆるやかに進む舟。
ローウェンが後方で櫂を握り、そのすぐ前にリネア、向かいにはクロウが座った。
三人で乗ると舟は手狭だった。
「……狭くてごめんね」
「大丈夫だ」
「ローウェン……そんなに心配しなくてもいいのに」
リネアは顔だけくるりと兄を振り返る。
「別に、二人で乗っても——」
「だめだ」
即答。
「リネアはもう年頃だ。気をつけなければならん」
湖面より澄んだ声で断言する。
「この間も招待状が届いただろう」
遠くの水面で魚が跳ねた。小さな波紋が広がる。
クロウが動きを止める。
「……招待状?」
初耳だった。
声が少し低くなる。
「何の話ですか」
ローウェンがちらりとクロウを見る。
「学院のプロムで見かけたとかで、春の夜会にと」
苦虫を噛み潰したような顔で説明する。
「三通だ」
櫂が静かに水を切る。
クロウは、心の内に広がる波を面に出さないように抑える。
「……そうですか」
表情は変えない。
視線は確実にリネアへ向いている。
「クロウ殿。妹は、プロムでどうでしたか?」
丁寧な言葉遣いだが、目は真剣だ。
クロウは答えるまで、ほんのわずかに時間を置く。
脳裏に蘇る夜。眩い光の中で弧を描く、淡い水色の軌跡を思い出す。
「綺麗でした。……水色のドレスがよく似合っていた」
水面に風が走る。
頬が熱を持つのが分かって、リネアは目を伏せた。
ローウェンが大きなため息を吐いて空を仰ぐ。
「それで目立ったのだろうな」
このため息は、怒りではない。
ただの心配だ。
ローウェンからすれば、誰がなんと言おうと、赤ん坊の頃からリネアは世界一可愛い存在だ。
いつか手が離れたとしても、何処の馬の骨とも分からない男には任せたくない。
クロウは静かに問う。
「どちらの家門ですか」
自然な流れで確認する。
あがった名に、クロウはどれも心当たりがあった。
「知っています。いずれも家格も力もある。
……ですが、社交を好み、華やかさを前に出す家ばかりです」
湖面の色が、陽を返す。
「リネアには、合わないかと」
あくまで断定ではなく、低い評価として話す。
リネアは少し考えたあと、眉を下げた。
「それは、確かにちょっと疲れそう」
「だろうな」
短く返す。
「なら……やっぱり断ろうかな」
「無理に行く必要はない!」
ローウェンの声に、露骨な安堵が滲む。
クロウはそれ以上は何も言わない。
ただ、ほんのわずかに、指先にこもっていた力が抜ける。
舟はやがてゆっくり岸へと向きを変えた。




