71 手紙
「ローウェン、セイル。少し来なさい」
夕食後。
男爵の声は穏やかだったが、仕事の響きを帯びていた。
書斎にはすでに灯りが入り、暖炉の前にはセイルの父――男爵の義弟が座っている。机の上には、整えられた書簡が数通。
男爵はそのうちの一通を指で押さえた。
「ヴァレンティ侯爵家からだ。
東部国境沿い要衝の視察につき、我が領に数日の停留を願いたいとの正式な要請だ」
断る選択肢はない。
軍務卿家からの正式要請である以上、受け入れるのが当然だ。
「ノクエル伯爵家からも同様の通知が来ている。参謀卿家として随行する、と」
ローウェンが顎に手を当てて考え込む。
「視察、か」
「うむ。形式も文面も、実に丁寧だ」
男爵はわずかに笑う。
「加えて――」
もう一通を持ち上げる。
「私信が、クロウ・ノクエル殿から別に届いている」
そこには、この停留に心配はいらないという文言。
星約と学友として改めて挨拶したい、という礼節。
ロゼ伯爵家の令嬢も同行する、とも記されている。
対応は完璧で、礼も尽くしている。
だからこそ、男爵は小さく息を吐いた。
「要請である以上、受け入れる。そこに異論はない」
穀倉地帯フォレスト。
東部外縁の安定した生産地。
非常時の兵站として軍も無視できない位置だ。
「ただな」
視線がやわらぐ。
「リネアが絡むと、私は少しだけ冷静さを欠く」
「うちは皆そうだ」
ローウェンが大きく頷いた。
男爵とセイルの父が苦笑する。
「クロウ殿は星約だ。学院でうまくやっていると、リネアの手紙にもあった」
そこは疑っていない。
「夜会で会ったレオニス殿やロゼ嬢も、悪い印象はなかった」
「そうか」
ローウェンの評価に、男爵は静かに安堵する。
「ならば視察とは別に、学友としての訪問と受け取ってよいのだろう」
だが、と言葉は続く。
「娘が“利用される”形になるのだけは、避けたい」
暖炉の火が小さくはぜた。
セイルはそこで、初めて口を開いた。
「学院で穀倉や家格の話をするような場面は、ありませんでした」
穏やかな声だ。
「今回の手紙は、正式な手順をきちんと守っている。少なくとも建前は真っ当です」
「建前は、か」
「ええ」
一瞬だけ、セイルの視線が落ちる。
(利用、というより……)
脳裏に浮かぶのは、プロムの夜。
クロウの視線。
あの沈黙。
政治的な意味よりは、もっと厄介な動機の可能性。
(私情のほうが、よほど扱いが難しい)
それは口には出さない。
「……三人とも、リネア個人を見ていると思います」
セイルはゆっくり答える。
「ならいいが」
男爵は視線をセイルに向ける。
「リネアも年頃だ。夜会の招待も届いている」
そして、静かに続ける。
「セイル、お前の進路も決まった」
王立研究所籍。
将来はこのままいけば問題ないだろう。
「……本格的に婚約を視野に入れてもいいのでは、と考えることもある」
ローウェンがセイルをちらりと見る。
セイルは驚かない。
けれど即答もしない。
「……リネアの気持ちが最優先です」
言葉を丁寧に選ぶ。
しかし、迷いなく。
「家の都合でも、学院の評判でもなく。彼女がどうしたいか」
暖炉の火が揺れる。
「今はまだ、急ぐつもりはありません」
はっきりと言う。
ローウェンが口元を緩めた。
「余裕だな」
「余裕ではないよ」
ほんの少しだけ、笑う。
「でも、焦っても彼女にいいことはない」
「そうか」
温かい沈黙。
穀倉も、爵位も、評判も貴族としては大事だ。
けれどそれ以上に大事なものが、この家にはある。
「訪問は正面から迎える。それがフォレストだ」
男爵が結論を出す。
「妙な気配があれば、俺が出る」
ローウェンが言うと、黙って成り行きを見守っていたセイルの父が穏やかに笑った。
「頼もしいね」
いつもは平穏な書斎に、小さな緊張だけが残った。
◇
リネアは、まだ何も知らない。
フォレスト家の書斎で交わされた言葉も、暖炉の前の静かな緊張も。
彼女が知っているのは、休暇に入ってからも続いている手紙のやり取りだけだった。
クロウからは簡潔な報告。
レオニスからは少しだけ余白のある文章。
セラフィナからは、華やかな封蝋と細やかな近況。
定期的に届くそれが、今では日常になっている。
そんなある日。
「リネアお嬢様、お手紙です」
侍女が三通、まとめてトレーに載せて差し出した。
差出人を見て、思わず笑う。
「……同じ日に?」
まず一通目。
ノクエル伯爵家の紋章。
簡潔だ。
視察の日程、経路、滞在予定。
そして一文。
"――東部視察の帰路、フォレスト領へ立ち寄る許可を得た"
丁寧だけど、隙や遊びがない。
まるで報告書のようだ。
二通目。
ヴァレンティ侯爵家。
“国境沿いの視察のついでに、穀倉地帯の優秀な管理を見学したいと思っている”と、いかにも実務的な書き出し。
そのあとにさらりと、
“君に会えるなら、なお結構だ”
とある。
三通目。
ロゼ伯爵家。
淡い色の封蝋に、セラフィナらしい美しく軽やかな筆致。
“東部まで行くなんて、楽しみで仕方ないわ。あなたの家族にもお会いしたいし、男爵様にもぜひご挨拶したいの”
そして最後に。
“二人だけで行かせるわけないでしょう?”
リネアは三通を並べて、まじまじと見た。
「……同じ内容」
文面も調子も違う。
けれど結論は同じ。
数日後に、来る。
リネアの胸が、どくんと鳴る。
フォレスト領は静かだ。
穀倉地帯で、社交の中心である王都のような煌びやかさもない。
その場所に、三人が来る。
「……どうしよう」
思わず呟く。
何をどう、ではない。
ただ、落ち着かない。
窓の外には冬の終わりの畑。
遠くで父が麦畑を歩く姿が見える。
ここは、変わらない場所。
リネアの居場所。
その“自分の世界”に、学院の友人たちが入ってくる。
嬉しい。
でも、少しだけ怖い。
ローウェンが聞いたらどうするだろう。
お母様はきっと楽しむ。
お父様は穏やかに笑う。
そして、クロウは。
プロム以降、どこか少しだけ、空気が違う。
手紙は変わらず簡潔なのに、行間が増えた気がする。それは、自分の受け取り方が変わっているせいなのか。
視察の帰り。
“ついで”のはずなのに、
どうしてこんなに心臓が落ち着かないのか。
リネアは三通を胸に抱える。
「……来るんだ」
それでも嬉しさが、先に勝った。
東部の街道の先に、領地では見慣れない格式高い馬車が現れるのは――それから数日後のことだった。




