70 帰郷
馬車が東部の街道へ入るころ、空気が変わった。
王都近郊の乾いた風とは違う。
土の匂いが濃い。
まだ冬色の畑が広がるその向こうに、川がゆるく蛇行している。
「……帰ってきた」
リネアが小さく呟く。
街道脇で作業をしていた農夫が、馬車に気づいて帽子を脱いだ。
それに気づいた別の男も、腰を折る。
「お嬢様だ」
「セイル様も一緒か」
ぽつりぽつりと小さく温かい声が領地へ広がる。
ただ、帰ってきた人を迎える仕草。
リネアは窓を開け、身を乗り出す。
「ただいま……!」
その一言に、畑のあちこちから笑みが広がる。
「おかえりなさいませ!」
馬車が進むたび、次々と帽子が持ち上がり、軽い会釈が交わされる。
大袈裟ではない。それでも誇りを含んだ仕草。
“あそこは必ず余剰を出す”
飢饉の年も、戦の年も。
そう言われる穀倉地帯。
痩せた土地を何代もかけて改良してきて、今の領地の豊かさがある。
堅牢な倉庫と、きっちり区画された畑。
治水のための水路が幾重にも走る。
やがて屋敷に近い区画の畑で、馬車が緩やかに速度を落とした。
「あれ……?」
窓の外で見慣れた後ろ姿を見つけた。
外套を脱ぎ、袖をまくり、測量器具を手にしている。
「……お父様!」
「危ないよ」
馬車が完全に止まるより先に、セイルの制止も聞かずにリネアは扉を開けて降りた。
「リネア?」
振り向いたセオドア・フォレスト男爵は、目を丸くしたあと、破顔する。
「もう着いたのか」
「今着いたの」
駆け寄る。
男爵は器具を慌てて助手に渡し、娘を抱きとめる。
土の匂いがする。
温かい。
「畑男爵、また測量してたの?」
からかうように言うと、男爵は朗らかに笑う。
「好きでやっているからなあ」
近隣貴族から侮られて“学者気取りの畑男爵”と呼ばれていることを、本人はむしろ気に入っている。
その名で呼ばれるたび、誇らしそうにするのだから始末が悪い。
「数字より土のほうが正直だからね」
温厚で、穏やかで、けれど芯が強い。
「セイルもお帰り。こっちはまだ寒いだろう」
「いえ。こちらの方が落ち着きます」
丁寧な口調で答える。
男爵は目を優しく細めた。
しばらく話てから、男爵と別れると馬車はゆっくりと屋敷へ向かった。
屋敷はそれほど大きくはない。
無駄がなく、どこも手入れが行き届いている。
玄関を開けた瞬間、温かな空気が包む。
「リネア!」
溌剌とした声。
マリア・フォレスト男爵夫人が待ちかねたように駆け寄る。
抱きしめられ、頬に口づけを落とされる。
「背が伸びた?」
「伸びてないよ」
笑い声が重なる。
廊下の奥から、叔父と叔母も顔を出す。
「おかえり」と自然に声が飛ぶ。
屋敷に着いたその日は、嵐のように過ぎた。
母に抱きしめられ、叔父と叔母に囲まれ、父に農機具の新しい工夫を見せらる。
夕食では麦の出来を延々と語られた。
それでも疲れないのは、不思議だった。
数日が過ぎるころには、冬の空気も少しやわらいでいる。
◇
休暇に入って数日。
屋敷の図書室は、穏やかだった。
暖炉の火がぱちりと音を立てる。
リネアは窓辺の長椅子に腰掛けて本を開き、向かいのテーブルでセイルが書類に目を通していた。
紙をめくる音だけが、時々響く。
静かな時間。
――が。
「ただいま帰還したぞー!」
玄関の方から、空気を震わせるような声が飛び込んできた。
リネアの肩が小さく跳ねる。
「……ローウェン?」
しばらくすると、図書室の扉が勢いよく開く。
「リネア!」
がっしりした体格。
外套を肩にかけたまま。
陽の光を背負ったみたいな笑顔が飛び込んでくる。
「帰ったぞ!」
一直線に歩み寄る。
リネアが立ち上がる間もなく、
「わ、」
視界が一瞬で高くなった。
軽々と抱き上げられている。
「ろ、ローウェン……!」
「軽いな! ちゃんと食ってるか?」
「食べてるよ……!」
抗議はするけれど、声は小さい。
ぎゅうぎゅう、と筋肉で厚みのある胸に遠慮なく抱きしめられて、少し息が詰まる。
「元気だったか?」
「うん」
頭をわしゃわしゃと撫でられ、背を叩かれ、もう一度ぎゅっとされる。
ようやく床に降ろされても、肩を掴まれたまま上下に確認される。
「痩せてないな。よし」
「……そんなに変わらないよ」
小さく言うと、ローウェンは豪快に笑った。
「変わるかどうかじゃない。確認だ」
太陽みたいな笑顔だ。
部屋の温度が一気に上がる。
ようやく視線が横へ移る。
「セイル!」
ぐい、と距離を詰める。
「お前も久しぶりだな!」
両腕が開く。
セイルは慌てず、ほんのわずかに一歩身体を引いた。
「それは遠慮しておくよ」
穏やかな声音ではっきりと拒否する。
「なぜだ」
きょとんとするローウェンにセイルは苦笑する。
彼の中ではセイルとリネアはいつまでも小さい弟と妹だ。
「この身長で抱き上げられるのは、絵面が厳しい」
ローウェンは一瞬じっと見てから、豪快に笑った。
「それもそうか!」
子どもの頃からずっとローウェンは変わらない。
そのやり取りを、リネアは微笑ましく見ている。
「学院は楽しいか」
「うん」
優しい声色にリネアは素直に頷く。
「楽しい」
迷いなく言えるのは、ここがあるからだ。
ローウェンは満足そうに頷いた。
「それならいい」
ぱん、と手を打つ。
「父上は?」
「南の方だと思う」
「また畑か。相変わらずだな」
くす、とリネアが笑う。
ローウェンはまた無造作にリネアの頭を撫でた。
「本ばっかり読んでないで、リネアもちゃんと外に出ろ」
「出てるよ」
「本当にか?」
「……たぶん」
控えめな答えに、また大きな笑い声が響く。
賑やかで、遠慮がない兄。
フォレスト家の春は、こうして一気に明るくなる。
◇
夕食は、久しぶりに全員が揃った。
長い木のテーブル。
香ばしいパンの匂い。
煮込み料理の湯気。
フォレスト男爵は上機嫌でワインを傾けている。
「そういえば」
男爵が何気ない調子で、ナプキンを置いた。
「リネア宛てに招待状が届いているよ」
「……私に?」
「春の夜会だそうだ。三通ほど」
リネアの手フォークを持つ手が止まる。
「三通?」
ローウェンの声が低くなる。
「どういうことだ」
「学院のプロムで見かけてぜひ、と書いてあったな」
「プロムで?」
空気が、ほんの少しだけ変わった。
「何かあったのか」
「何もないよ」
首を振るリネアに、セイルが静かに続ける。
「リネアが綺麗で目立っていたからかも」
リネアが咳き込む。
「セイル」
「事実だよ」
慌てて照れるリネアを、大人たちは微笑ましそうに見守っている。
ローウェンの眉だけがぴくりと動いた。
「どんなドレスだった」
セイルは視線を逸らした。
「……よく似合っていた、とだけ」
プロムで外套を脱いだときのリネアの姿が思い浮かべて、詳細は控えることにした。
ローウェンが知ったらきっと卒倒する。
「おい、誤魔化すな」
「まあまあ。成長した証でしょう?」
夫人がセイルの母と目配せしながら楽しそうに笑うと、男爵も穏やかに頷く。
ローウェンはカトラリーを置くと、リネアを真っ直ぐに見る。
「夜会の招待は……断ってもいいぞ。無理に行く必要はない」
「ローウェン」
夫人が嗜める。
「うちは困らない。穀倉は回っているし、今年も余剰も出ている。無理に社交に出る必要はない。
リネアはここにいればいい」
ローウェンの憮然とした様子に、男爵が苦笑する。
「それではどこにも嫁げないぞ」
「いかなくていい!」
食卓に穏やかで温かい笑いが広がる。
リネアは思う。
自分の人生最大の幸運は、きっとこの家に生まれたこと。
どんな自分でも、迷いなく受け入れてくれる家族がいる。その幸福を噛み締める。
フォレスト家の夜は、賑やかに更けていった。




