69 馬車の中で
学院を出て半刻もすると、石畳は土の道へ変わった。
喧騒が遠ざかる。
窓の外はまだ冬の色をしているけれど、光だけは少しやわらいでいた。
リネアは向かいに座るセイルを見て、小さく息を吐く。
「少し変な感じ」
「なにが?」
「入学してから、初めてちゃんと帰るから」
休暇はあったけれど、あれは王都での滞在だった。
東部へ戻るのは、本当に久しぶりだ。
「フォレストの森、まだ雪は残ってるかな」
「北斜面にはまだあると思う」
フォレスト領は王都から離れた東部外縁にある穀倉地帯で、代々、麦畑を開いてきた土地だ。
春が近づけば雪が溶け、やがて一面がやわらかな緑に染まる。
馬車の中ではプロムの話は出ない。
あれは学院の夜の出来事。今は昼の帰路で、なんとなくお互いに話題に出さない空気があった。
代わりに話すのは、家族のこと。
今年の作付けの話や、思い出の場所。
「帰ったら、きっとローウェンが騒ぐよ」
「目に浮かぶ」
ローウェンは、仕事を終えてリネアたちよりも少し後に領地に戻るらしかった。
声が大きくて少し騒がしい兄の様子を思い出して、笑い合う。
沈黙が落ちても気まずくない、馬車の揺れと同じくらい自然な家族の空気。
リネアは窓に額を預ける。
学院に入って、リネアの世界は広がった。
出会いも、悩みも、増えた。
けれど東部に戻れば。
緑の匂いも、家の暖炉も、図書室も、きっと変わらない。
変わらない場所があるから、変わっていく自分を怖がらずにいられる。
「眠い?」
「少し……」
セイルは外套を膝にかけ直してやる。
それ以上は何もせず、静かに見守る。
リネアはそのままうとうとと目を閉じた。
馬車は、東へ進む。
入学してから初めての帰省。
リネアの瞼の裏で、麦畑が風に揺れた。
◇
ヴァレンティ家の馬車は、学院を出てしばらくすると一定の速度で南へ向かって揺れ始めた。
窓の外にはまだ冬の色が残る平野が流れている。
向かいに座るレオニスは、膝の上に地図を広げていた。
軍用の詳細なものだ。
街道、補給路、要塞都市、国境線。
セラフィナは最初こそ窓の外を眺めていたが、何度も視界に入る“同じ辺り”に、ふと気づいた。
「……さっきから、そこばっかり見てない?」
レオニスの指が止まる。
覗き込むと、国境沿いの一帯がなぞられている。
「東部?」
「しばらくあっちの領地には行けてなかったからな。休暇中に視察する」
セラフィナの瞳に、訝しむような光が宿る。
「このタイミングで?」
「そうだな」
平坦を装った短い返答と、数秒の気まずい沈黙。
「……ねえ」
にこりと笑う。
もうセラフィナには視察の意図が見えていた。
そして、学院の前で交わされたレオニスとクロウの意味ありげな視線の意味も。
「男二人で行って、大丈夫?」
レオニスの表情がわずかに強張った。
「何がだ」
「だって」
少し身を乗り出す。
「夜会でお会いしたローウェン様、リネアを随分可愛がっていたみたいけど」
タウンハウスでのローウェン・フォレストの姿をレオニスは思い出す。
妹の話題になった瞬間、破顔していたあの様子。
「リネアの話を聞いていても、あの兄妹はかなり仲良が良いでしょう?」
レオニスがわずかに眉を寄せる。
「軍務上の視察だ」
「もちろん」
言い訳のような言葉を、セラフィナは否定しない。
でも。
「“そう”見えるかどうかは別問題じゃない?」
そしてさらっと続ける。
「私も行く」
「……は?」
「同行した私が会いたがったって言えば、実務ついでの"学友"の訪問よ」
どう?と胸を張る。
「私、役に立つわよ?」
少しだけ悪戯っぽく笑う。
レオニスは思わず小さく息を吐いた。
「……クロウはどう思うだろうな」
「合理的だって言うわよ、きっと」
敵わない。完全に読まれている。
数秒見つめ合って、諦める。
「好きにしろ」
「ええ、そうする」
セラフィナは鼻唄を歌いながら窓の外へ視線を戻す。
レオニスは諦めたように、地図を静かに閉じた。
◇
クロウは学院を出ると、馬車を王都へ向かわせていた。
王都のタウンハウスで数日仕事をこなしてから、領地へ戻る予定になっている。
東部視察の件も、父へ正式に上げるつもりだ。
補給路の確認、要塞都市の点検。名目は整う。
膝の上の地図に視線を落とす。
国境沿い。
街道。
そして、その少し南。
フォレスト領。
指先が止まる。
距離を測って、移動日数を計算する。
立ち寄る場合の経路を引く。
何度も同じ箇所を見ている自分に気づいてしまう。
軍務としては、不自然ではない。
……不自然ではない、はずだ。
今もまだ真面目に、真剣に、どうすれば"偶然"を演出できるかを計算している。
らしくない自分に、小さく苦笑した。
今頃。
同じ馬車で、向かい合って座っているのだろうか。
領地までは二日半はかかると言っていた。
自分がそこにいないことだけが、はっきりしている。
眉間に皺が寄る。
クロウは深く息を吐いた。
戦場ならまだ分かりやすい。
敵味方、地形、兵数。
状況を整理し、最適解を出す。
だが、これは違う。
相手の心は地図に載らないし、最短が正解とも限らない。
でも、何もしないまま後悔するよりは、ましだ。
東部へ行く。
理由は軍務だ。
――それでいい。
窓の外の景色が、ゆっくりと流れていく。




