65 プロムナード 4
数曲が終わるころには、会場の空気はすっかり温まっていた。
音楽は一度柔らかく緩み、楽団が次の旋律の準備に入る。
歓談の時間だ。
中央から自然に人の輪がほどけ、壁際や卓へと散っていく。
ドレスの裾が擦れ合う音、グラスの触れ合う軽い音、抑えた笑い声。
レオニスとセラフィナも、踊り終えた余韻をまとって戻ってきていた。
「楽しかった!」
セラフィナが扇を軽く揺らす。
頬はほんのりと紅潮し、目元は艶やかに光っている。それでも姿勢は崩れない。
花は花のままだ。
そのとき。
「――失礼」
落ち着いた、静かな声がした。
振り向けば、セイルにエスコートされたリネアが立っていた。
立て続けに踊ったからだろう。
胸元の刺繍が呼吸に合わせて淡く揺れ、肩先にはわずかな熱の色が宿っている。
頬は上気し、瞳はいつもより潤んで、光を柔らかく弾いていた。
夜会の灯りの中だと、その色は昼とはまるで違う。
「少し休憩を」
セイルが穏やかに告げるその様子とは裏腹に、ここまで誰にもパートナーは譲らなかった。
一曲終わるたびに自然に次へと繋ぎ、リネアの手を離さない。
「セラフィナ嬢」
セイルが向き直る。
「リネアのこと、本当にありがとう」
一瞬、視線をリネアへ落とす。
「……でも想像以上で、少し困っている」
わずかに眉を下げて笑う。
セラフィナの唇がゆっくりと上がる。
「最高傑作よ」
「同意する」
レオニスが真顔で頷く。
周囲の同級生たちも集まってくる。
「びっくりしたよ」
「見違えた」
「すごく大人っぽい」
リネアは照れて嬉しそうに笑う。
そのとき。
クロウと、目が合う。
音が少し遠のいたように感じた。
視線が、熱い。
先ほどまで遠くから見ていた姿が、今はクロウのすぐ目の前にある。
露出した肩と背中。
白い肌の上を走る銀糸の刺繍。
首筋から鎖骨へ続く細い線。
呼吸のたびにわずかに揺れる胸元。
クロウの視線が、自然と上から下へと落ちる。
他の誰よりも長く、無意識に目で追っていた。
リネアは綺麗だった。
誰かに見せたくないと、思ってしまうほどに。
「……似合ってる」
やっと出た声は、柔らかい。
「すごく」
リネアの瞳が、ほんの少し丸くなる。
「ありがとう」
照れ臭そうに、素直な声で笑う。
そしてようやくリネアも気づく。
「クロウも……今日は、すごくちゃんとしてる」
前髪をきっちりと上げた額。
黒の正装がスラリとしたスタイルを際立たせる。
普段よりずっと大人びていて、近寄りがたい気品があった。
「似合ってる」
クロウの喉がわずかに動く。
その視線を遮るように、セイルが半歩前に出た。
あくまで自然な動きだった。
「少し何か食べようか」
リネアに向ける視線は優しい。
「ほら、君が好きなタルトがある」
「あ、本当?」
ぱっと顔が明るくなる。
その変化にクロウは打ちのめされる。
セイルの前では、あんな風に素直に笑う。
「行こう」
セイルが手を差し出す。
皆に挨拶をしてから指先が重なると、二人はゆっくりと遠ざかる。
その様子にレオニスが小さく笑う。
「隙がないな」
「手強いわよ」
でも、とセラフィナが続ける。
「今日のクロウに、あの手を取る資格はないもの」
感情ではなく、事実として言い切る口調だった。
痛いほど、正しい。
クロウは視線はリネアの後ろ姿から外さないまま、低く息を吐いた。
◇
会場の端は、中央よりも光が落ち着いている。
壁際には背の低い卓がいくつか置かれ、花とキャンドルが揺れている。
ダンスフロアの熱気は少し遠く、音楽は壁に反射して丸くなる。
リネアとセイルは並んで腰を下ろした。
スカートがふわりと広がり、椅子の脚に触れて静かに収まる。
肩にかかっていた熱が、ようやく落ち着いてくる。
「こんなに踊ったの、初めて」
踊り続けた余韻が、まだ身体の奥に残っている。
息を吐くリネアの頬には、淡い紅が残ったままだ。
セイルはその横顔を、見つめてから視線を外す。
「疲れた?」
「ううん」
リネアは笑う。
「楽しい方が勝ってる」
その言葉に、セイルの目元がやわらぐ。
楽団の音楽は中盤を彩る軽やかなメヌエットへ。
回転する色の渦が、遠くで揺れている。
「懐かしいね」
リネアが小さく言った。
「僕らの初めての夜会」
フォレスト男爵家での小さな夜会。
いつもの屋敷、見知った大人に囲まれているのに、子供たちはひどく緊張していた。
「一曲踊るのが、精一杯だった」
「終わったあと、庭に逃げたよね」
「逃げてない」
「半分泣いてた」
「泣いてない」
リネアが少しだけむくれる。
あのときは、セイルも手を取るだけで精一杯だった。
二人で視線を上げることもできず、足元ばかり見ていた。
今は違う。
今日のリネアは、ちゃんと顔を上げて踊っていた。
旋律に合わせて呼吸を整え、相手の動きを読み、自分の軸を保っていた。
(本当に、大きくなったな)
セイルは静かに思う。
目の前の少女は、もうあの頃の少女ではない。
「卒業したら」
音楽の合間に、リネアの言葉が落ちる。
「忙しくなるでしょう?」
王立研究所。
各地への派遣。
新しい研究。
「こういう時間も、なくなるのかなって」
水色の瞳が、少しだけ揺れる。
寂しさを隠さない声だった。
セイルはすぐに答えなかった。
楽団の旋律が一度高まり、また落ちる。
会場のざわめきが、ふたりの間を流れていく。
「なくならないよ」
ようやく、静かに言う。
リネアが顔を上げる。
「え?」
「研究所には行く」
それは変わらない。
「でも、僕は魔力回路の研究をやりたい」
セイルの視線は、真っ直ぐに遠いところを見据えている。
「だから学院と研究所、両立できないか交渉した」
「……え?」
驚きがそのまま顔に出る。
「学院なら生徒が多い。研究協力も得やすい」
淡々とした説明。
けれど、目の奥には熱がある。
「短期休暇で西部に行ったのも、そのため」
叔父と叔母の長期調査。
あれはただの同行ではなかった。
「資料を集めて、両親にも相談して提案書を作った」
リネアは言葉を失う。
「来年も、学院にいるよ」
笑顔と柔らかな声。
「研究所に籍を置きながら、本科棟に研究室をもらえないかって話してる」
「……本気で?」
「本気だよ」
少しだけ、いたずらっぽく目を細める。
「ちゃんと、君の卒業を見届ける」
その言葉は、軽くない。
リネアの胸がぎゅっと締まる。
「申し込みのとき……」
「うん」
「最後みたいに話したから、私てっきり」
唖然としたまま見上げる。
セイルはほんの少し肩をすくめる。
「あのときは、まだ決まってなかったから」
「じゃあ、あれは何?」
「保険?」
「ひどい」
思わずリネアは笑ってしまう。
会場の光が、二人を照らす。
音楽がまた変わる。
中央では新しい組が踊り始めている。
セイルは、隣に座るリネアの横顔をもう一度、見つめる。
ダンスフロアの笑い声が少し遠くなる。
子供の頃から知っている。
優しくて、少し頑固で、本ばかり読んでいた女の子。
今日は――
ダンスホールでも堂々と踊る立派な令嬢だ。
胸の奥に湧く感情は、誇らしさだけではない。
ほんの少しの焦りもある。
「リネア」
「なに?」
目の前の淑女の手を、わざとらしく恭しく取る。
重くとられないよう、冗談めかして。
「最後のワルツも、僕と踊ってくれる?」
リネアは破顔して頷いた。
夜は、まだ終わらない。




