59 ダンスの練習
吐く息が白い。
演習地の地面は夜露でしっとりと濡れ、踏むたびにひやりと靴底に冷たさが伝わる。
冬の朝は容赦なく体温を奪う。
リネアは手袋越しに指をこすり合わせた。
視線の先では、クロウが弓の弦を確かめている。
静かな横顔。
張り詰めた空気。
近づくと、弦を引く指先が少しかじかんでいるのがわかった。
「寒いね」
「……ああ」
リネアは少し迷ってから言う。
「セラフィナと、喧嘩した?」
クロウの動きがわずかに止まる。
弦が、ぴん、と小さく鳴った。
「喧嘩というほどじゃない」
最近のセラフィナには、クロウに対する棘があった。
少し避けているようにも見える。
深刻な雰囲気では無いけれど、入学してからこんな二人を見るのは初めてのことだった。
「……少し、怒らせた」
「クロウが?」
「俺が悪い」
白い息の向こうで、視線が逸れる。
ほんの少し、唇が動く。
苦笑とも言えない、微妙な表情。
リネアは首をかしげる。
「何をしたの?」
「何もしてない」
――だから、セラフィナは怒っている。
クロウもそれは分かっていた。
「……最近」
「え?」
「忙しそうだな」
「うん。でも、楽しいよ」
リネアは素直に言う。嘘ではない。
笑うリネアに、クロウは少し目を見張る。
セラフィナが付きっきりになってから、以前よりも雰囲気が変わった。
「セラフィナが色々教えてくれるから」
「……そうだな」
遠くで、セラフィナの声が聞こえる。
いつもの明るい調子。
クロウは一瞬だけそちらを見る。
「早く仲直りできるといいね」
リネアはそう言って、少しだけ困ったように笑った。
返事はできない。
ただ、ほんのわずかに心はほぐれた。
「集合ー!」
遠くからガイの声が響いた。
「……演習、始まる」
「うん」
その瞬間、空気が切り替わる。
クロウの目が鋭くなる。
リネアも呼吸を整える。
私情は置く。
小隊としての顔に戻る。
「行こう」
「ああ」
白い息が重なり、ほどける。
冬の朝は冷たい。
隣の距離だけは、少しだけ近い。
◇
プロムの準備は着々と進んでいた。
一年生の教室の後方では色布の見本が広げられ、
廊下には装飾用のリボンや花材の箱が積まれている。
リネアとセラフィナは、外賓向け招待状の担当だった。
「この文面でいいと思う?」
「うん、格式は保ちつつ硬すぎない。完璧」
さらさらとペンを走らせながら、セラフィナが満足そうに頷く。
『直前に疲れてたら台無しでしょ』
負担が重すぎない役割を選んだのは、偶然ではない。
プロム直前は、リネアの仕上げに全力を注ぐため。
楽しみにしていた飾り付けや菓子の担当を辞するほど、セラフィナはずっと本気だ。
インクを乾かしながら、セラフィナが思い出したように言う。
「ダンス」
リネアの肩がぴくりと動く。
「まだぎこちないわよね」
「……うん」
ステップや基本の姿勢はセラフィナが丁寧に教えてくれてはいる。
ただ、曲によっては女同士で練習するには限界がある。
「やっぱり筋力がいるのよね」
セラフィナが腕を組んで悩む。
ならクロウに、とはもうリネアから言いだしにくい。
二人の喧嘩は相変わらず続いているようだった。
「ミカ」
セラフィナがくるりと振り返る。
「ダンス、苦手なんでしょう?」
「踊ったことない」
ミカは机に肘をつきながら笑っている。
上級生からの誘いは、踊れないからプロムには出ないと断っているようだった。
「ちょうどいいし、基礎からやる?リネアと一緒に練習」
「え、俺?」
「手伝ってくれない?」
顔には出ない。
ミカの笑顔の奥の温度が下がったのが、リネアには分かった。
俺を巻き込まないで、というオーラに、リネアは内心ヒヤヒヤする。
「クロウに頼まないの?俺より、リネアの従兄に身長は近いと思うけど」
「クロウとは練習させない」
きっぱり。
「なんで?」
「なんででも」
教室の端にいるクロウが、気まずそうに目を伏せた。
セラフィナとクロウとリネアを見比べる。
ふーん、なるほど。
ミカはなんとなく、理解する。
「いいよ。練習だけなら」
さっきとは打って変わって、明らかに面白がっている顔。
「基礎からでいいんだよね?」
セラフィナの目が光る。
「もちろん!」
◇
使われていない空き教室には西日が斜めに差し込み、床板の傷まで浮き上がらせていた。
机と椅子は壁際に寄せられ、中央だけがぽっかりと空いている。
簡易的な“舞踏会場”だ。
「右、左、寄せて。ここで半回転」
セラフィナが男性パートを実際に踊って見せて説明する。
ミカは数度見てから、すぐに動いた。
一歩。
二歩。
足の運びに迷いがない。
ターンの入りも正確。
重心移動が自然。
数分も経たないうちに、形ができる。
「どう?」
「……踊れないんじゃなかったの?」
リネアが驚いて目を瞬かせる。
「式典でも、見たことはあるし」
あっさりと言う。
セラフィナは一瞬だけ悔しそうな顔をして、すぐ切り替える。
ミカはその後も、ほとんどの動きを短時間で覚えてしまった。
一方。
リネアの方はワルツで難航していた。
「リネア、足が遅い!」
「わかってる……!」
踏み替えが半拍遅れる。
ターンに入る直前で躊躇が出る。
音楽の代わりにセラフィナがカウントを刻む。
「一、二、三。そこで回る!」
「今!?」
「今!」
くるりと回される。
でも体が固い。
「力抜いて!」
「抜いてる!」
「抜けてない!」
セラフィナがため息を吐いて額を押さえる。
「いい? 男性パートは支える。女性パートは預けるの」
リネアが少し眉を寄せる。
領地の夜会では開幕の踊りのあとは、なるべく踊るのを避けてきた。
終盤のパートナーとの距離が近く、派手な動きがあるダンスはどうしても緊張してしまう。
セイルも察して無理には今まで誘ってこなかったのだ。
「預けるの、苦手……」
「知ってる」
即答。
「だから練習してるの!」
セラフィナがミカを見る。
「ホールド」
ミカが指示通りに、リネアへスッと手を回す。
掌が背中へ。
距離が一気に近くなる。
リネアの呼吸が浅くなる。
「ガチガチ」
ミカが小声で笑う。
「う……」
「もっと体重かけていいよ。俺は倒れない」
事実だ。
少し体重を預けても、びくともしない。
筋力は十分。
体幹も安定している。
「もっと」
セラフィナの声。
「リネア、相手に任せるの」
ぐっと引き寄せられる。
胸元が触れそうな距離。
心臓の鼓動が速い。
「そ、そんな近く……」
「舞踏会ではこれが普通!」
セラフィナは真剣だ。
「目を逸らさない!」
リネアが視線を上げる。
至近距離でミカと目が合う。
笑いを堪えてる顔がすぐ目の前にある。
距離が、近すぎる。
ターン。
ふわりと回る。
戻る。
ぴたりと抱き寄せられる。
その瞬間、そこへ。
「お、やってるな」
振り向いたリネアの視界に入ったのは、
レオニスと――その後ろに半ば引っ張られてきたクロウ。
扉のところで、時間が止まる。
ちょうど。
本当にちょうど。
ミカがリネアの背を支え、完全に密着した体勢だった。
クロウの位置からも、回された指の位置まで、はっきり見える。
「……何してる」
絞り出すようなクロウの低い声。
「ダンスの練習!」
腕を組んで堂々と答えるセラフィナ。
そのまま、外野は意に介さず指導を続ける。
「リネア、まだ重心が上!もっと預けて」
「え、これ以上!?」
「いいの!」
ミカがちらりとクロウを見てから、わずかに力を強める。
リネアの体が自然に引き寄せられた。
「ダンス、結構面白いね?」
遊びの延長のような顔で、楽しげなミカ。
その動きは初めてとは思えないほど滑らかだ。
反して、リネアは光のない遠い目をした。
本番も踊りきれる気がしない。
リネアの前途多難な練習は続く。




