52 三学期
空が、歪んでひび割れる。
石畳が浮き、塔が傾き、土埃が舞う。
レオニスが剣を振るっている。
セラフィナが光を放っている。
矢が、歪みを射抜く。
世界が軋む。
そしてすべてを塗り潰す白。
戻らない命。
名を呼ぶ声だけが、はっきりと残る。
クロウ。
その先は、いつも霞む。
目が覚めると、呼吸が荒い。
冷たい汗に寒気がした。
(……また)
そっとカーテンから寮の窓の外を覗くと、夜明け前の薄い青。
三学期初日の朝だった。
眠れないまま、リネアは外に出る。
◇
十一月の初旬。冬はまだ遠いが、朝の空気はひやりとしている。
学院の庭には薄い霧がかかり、白い芝生がうっすらと露で濡れていた。
夢は終わらない。
資料室で見た記録も、大星蝕の止め方を示してはくれなかった。
起こる可能性が高い。
なら――
(どうすれば)
焦りが、胸が奥を占める。
「早いね」
声がした方に目をやると、淡い影が立っている。
朝靄の向こうからゆっくりと輪郭が浮かびあがった。
「ミカこそ……」
朝の光を背負う姿は、制服を着ていてもやっぱり現実味が薄い。
「朝の祈祷。神官見習いは早起き」
並んで歩く。
特に目的もないまま、足音だけが霧の中に吸い込まれていく。
しばらくして、ミカが口を開いた。
「で?絶望した?」
「……少し」
「ふーん」
肩をすくめる。
「でもさ。起こるなら起こるんでしょ」
リネアが顔を上げる。
「止められないなら、被害を減らす。
選択肢を増やす。それだけじゃない」
「……そんな簡単に」
「簡単じゃないよ。でもリネア、難しいこと好きじゃん?」
小さく笑う。
「泣いてる暇ある?」
ぽかんと見上げる、リネアの目はうっすらと赤い。
ミカはその顔を見て、わずかにため息を吐いた。
「ほら」
無造作に折り畳まれた薄い紙束を、ポケットから取り出した。
「……なに?」
「一昨日の続き」
「資料室になかった直近の観測記録と魔力偏差の報告。
全部じゃないけど、使えそうなとこだけ」
リネアが固まる。
「……持ち出したの?」
「写した」
「どうして」
「サボるついでに。暇だったから」
「……」
焦りも不安はずっと消えない。
でも、
(できることをやるしかない)
霧の向こうで、空が少し明るくなる。
「……ミカ、ありがとう」
「どういたしまして」
リネアは小さく息を整える。
ところで、と前置きして疑問だったことをミカに問う。
「気になってたんだけど」
「なに?」
「……夢の話」
ミカの表情は変わらない。
「神殿には、話してないの?」
もし伝わって神殿が知れば、聖女を探すために何らかの接触がリネアにあってもおかしくない。
けれど、これまで何もない。
それでいて、守夜祭や今日の資料のことといい、ミカがリネアに協力的なのも気になった。
「……話してないよ」
「どうして?」
「俺も、まだ確証を持てないし」
ミカは、あっさり言った。
「リネアの夢を信じてないわけじゃない。でも、曖昧なまま持ち込むと、面倒になる」
「……面倒?」
「うん。神殿は“可能性”を放置しないから」
軽く笑う。
「観察とか、保護対象とか、ね。
優しくはないよ。たぶん」
軽い調子に、重さが隠れている。
リネアはなんとなく察した。
それでも、ミカなら上手く伝えることはできただろう。
最初こそ脅しのような形だったけれど、今まで言わないでいてくれている。
夢のことも、対価のことも。
「……ありがとう」
「別に。面白そうだからまだ様子見してるだけ」
ミカは霧の先を見たまま、少しとぼけた声で言う。
その横顔は、やっぱり少しだけ守夜祭のときよりも距離がある。
◇
寮の部屋に戻ると、リネアはもう一度顔を洗う。
鏡の中の自分は、少し目の下に影がある。
それでも、立っている。
制服を整えて深呼吸をしていると、廊下からぱたぱたと足音が聞こえた。
「リネアー、おはよう!新学期よ!」
ノックと同時に元気いっぱいの声が響く。
扉が開くと、冬用の外套を羽織ったセラフィナが立っている。
「元気?」
「うん、おはよう」
ちゃんと笑う。
「よかった!休み明けって疲れるもんね」
部屋に入り、満面の笑みでリネアの腕を引く。
「ほら、行こう!」
セラフィナと休暇の思い出を振り返りながら学院に向かうと、校門前はすでに賑やかだった。
冬前の空気と、休み明けの高揚。
制服の色があちこちで揺れる。
「おーい!リネア!」
ガイが大声で手を振る。
エマがその横で小さく手を上げる。
後ろのネーリス兄弟はまだ少し眠そうだ。
久しぶりの顔ぶれ。
レオニスはいつものように鷹揚に笑う。
クロウは整った姿勢で相変わらず落ち着いていた。
自然と、リネアはクロウの隣に立った。
「クロウ、おはよう」
「……おはよう」
目が合って短い挨拶をする。
それが休暇前よりも、わずかに長い。
リネアは逸らさない。
逸らさないで、そのまま表情を確かめる。
顔色、呼吸、立ち方。
変わらない。
いつも通りだ。
胸の奥で確認して小さく頷く。
歩き出すと無意識に、歩幅を合わせる。
階段を上るときも、廊下を曲がるときも、ほんの少しだけ、いつもより距離が近い。
(止められないなら、ちゃんと見ていないと)
夢の中で崩れ落ちる瞬間を、何度も見てきた。
なら、現実では目を離さない。
教室の前で、クロウがわずかに足を止めた。
「……何か、ついてるか」
不意に言われて、リネアは瞬きをする。
「え?」
「さっきから、やけに見る」
責めるでもなく、ただ不思議そうに。
しまった、と思う。
気合いが入りすぎて、やたらと視線が露骨になっていたのかもしれない。
今はまだ、学院もクロウもいつも通りだ。
不自然にならないように、注意しないといけない。
「えっと、」
少しだけ間を置いてから、付け足す。
「……久しぶりだから」
完全な嘘でもない。
クロウは一瞬だけ黙り、それ以上は追及しなかった。
「そうか」
頷いて、それだけ言う。
けれど、教室に入るとき、ほんのわずかにリネアの側へ立つ位置を寄せた。
無意識か、配慮かはわからない。
リネアは気づかない。
ただ、自分の中で静かに決めている。
(起こるなら)
夢が変わらないなら。
(そのときは、近くにいる)
三学期が始まる。




