51 守夜祭 後編
結局、昨夜は暗闇とともに解散になった。
守夜祭の灯りが戻ったあとは神殿の動きが慌ただしくなり、資料室に長居するのは危険だった。
明日には学院へ戻る。
これが、最後の機会。
ミカは早朝の祈祷に出ると言っていた。
だから今日は、神殿で合流することになっている。
◇
宿を出る前、リネアは何度も窓の外を確認した。
人通りの少ない時間を選んだとはいえ、胸の奥が落ち着かない。
普段の外出用のワンピースで宿を出る。
祭服は鞄の底に隠してある。
王都の外れの静かな通りを歩き、神殿から少し離れた古い街道の影へ入った。
人がいないことを確かめてから、急いで着替える。
祭服を羽織って帽子をかぶる。
自分の姿を石壁の影で確かめたとき、胸に小さな棘が刺さる。
神官の服を、こんな目的で。
罪悪感がじわりと広がる。
それでも、足は神殿へ向かっていた。
◇
中央神殿の前庭は、すでに祈祷を終えた神官たちでざわついている。
リネアは人目につかないように、指定された合流場所でひっそりと息を潜めていた。
白い祭服の一団。
その中に、ひときわ静かに立つ背中を見つける。
ミカ。
祈祷後の人の流れから少し外れて、こちらに向かってくる。
朝の光を受けた顔は、昨日よりももっと冷たく神々しく見えた。
本当に、黙っていれば宗教画だ。
声をかけようとしたその時、ミカの進路に二人組の神官見習いが立ちはだかった。
袖口の刺繍が違う、地方神殿の印。
「……お前が中央の“平民”か?」
ミカは歩幅を変えない。
「下賎な出自で中央に居座り続けてるやつ」
「触れると呪われるとか」
「その女みたいな顔で、神官長に取り入ったのか?」
くすくすと、押し殺した嫌な笑い。
ミカは、立ち止まって少しだけ首をかしげた。
「もういい?」
「は?」
それは、問いではなくて確認だった。
次の瞬間。
何も起きていない。
音も、光もない。
ただ――
見習いの一人が、突然、喉に手をやった。
「……っ?」
吸う。
吸えない。
胸が上下しない。
いや、空気はある。
肺は動く。
けれど、どうやって吸えばいいのかが分からない。
「……っ、あ……」
呼吸の仕方が、抜け落ちる。
隣の一人も、同じように瞬きを繰り返す。
息をする、という当たり前の動作が、手順ごと剥がされる。
怖いのは、痛みがないことだ。
苦しくもない。
ただ、“方法”が消える。
たった数秒間、視線だけで。
やがて、ミカが視線を外す。
肺が動く。
空気が入る。
「中央は空気が薄いからね」
膝をついて、青年たちが激しく息を吸い込む。
「慣れないと、苦しいでしょ?」
誰も言い返さない。
涙と涎にまみれた怯えた顔で、転がるように走り去っていった。
ミカは何事もなかったかのように伸びをする。
そこで、ようやくリネアに気づく。
「おはよう。ちゃんと一人で来れてえらいね」
声は、昨日と同じ軽さ。
明るい笑顔。
さっきまでの冷たさは、どこにもない。
「……おはよう」
それだけ言う。
他に言葉が出なかった。
「じゃ、行こうか」
気にした様子でもなく、白い背中が先を歩く。
何も言えないまま、リネアはそのあとを追った。
◇
昨日と同じ渡り廊下。
人の流れを読む足取りが、今日は少しだけ自然だ。
「慣れたね」
ミカが囁く。
「窓の高さも覚えた?」
「……覚えたくて覚えたわけじゃない」
小声で返す。
昨日よりも迷いなく窓枠に足をかける。
持ち上げられる感覚にも、もう驚かない。
窓から身を滑り込ませ、静かに着地する。
「いいね、上手」
ミカが小さく笑う。
「褒められても嬉しくない」
「でも成長だよ」
からかう口調。
それに返そうとして、さっきの光景が脳裏をよぎる。
「……さっきの」
言葉が、つい零れた。
「うん?」
「神官見習いの人たち」
息が、止まった。
それだけは分かった。
彼らが何をされたのかは、理解できない。
ミカの恩寵が、リネアが知識として知る干渉の力より明らかに強いことは、薄々分かっていた。
それがどこまで深く使うことが出来るものなのか、踏み込んだことはない。
でも、あれは“やり過ぎ”だと本能が告げていた。
「……ああ」
軽い声。
「ごめんね。嫌なもの見せた」
悪びれた様子はない。
本当に、日常の延長のような顔だ。
「でもあのくらいやらないと、キリがないからさ」
書架の間を歩きながら続ける。
「ああいうのは、まだかわいいもんだよ」
冗談みたいに。
けれど、その奥に少しだけ別の影がある。
リネアは何も言えない。
否定もできない。
肯定もできない。
ただ、
「……」
祭服の裾を握りしめる。
領地でも貴族と領民に確かに立場の線引きはある。
それでも、あんな風に露骨な悪意や差別を向けられる世界を、リネアは知らない。
ミカは振り返らないまま言う。
「気にしなくていいよ。慣れてる」
慣れている。
その言葉のほうが、さっきの光景よりも怖かった。
あまりにあっさりと言うから、リネアもそれ以上続けられない。
聞いてはいけない気がする。
重くなった空気を払うように、ミカがわざとらしく手を叩いた。
「で?今日は何から見るの」
◇
リネアは昨日の書き留めを広げる。
「神殿は……大星蝕の時期を、ある程度予測しているかもしれない」
昨日の仮説を話す。
「あり得るね」
ミカの驚きは薄い。
「俺たちの動きが活発になったのも、この数年だし」
俺“たち”。
神殿内部の、別の動き。
「でも」
リネアは手を止める。
「予測できるなら、どうして止めないの?」
沈黙。
「止められないのかも」
ミカの声は、静かだ。
「規模がでかすぎる。あるいは……必要だと思ってるとか」
「必要?」
「浄化とか、選別とか。宗教はそういう理屈、好きでしょ」
嫌な答えに背筋が冷えた。
「……手がかりが、あるはず」
必死にページをめくる。
魔力波の異常。
封印術式の記録。
古い儀式の失敗例。
目についた資料に、片っ端から目を通す。
でも。
止める方法は、どこにも書いていない。
予兆はある。
観測はある。
記録はある。
“回避”はない。
リネアの喉が詰まる。
夢の光景がよぎる。
崩れる学院、叫び声、白い光。
――クロウ。
夢が現実になる。
「リネア」
視界が滲む。
ミカの声が近い。
「……時間だ」
「待って。まだ、全部見たわけじゃない……!」
窓の外の光が傾いている。
今日中に宿へ戻り、明日には学院へ向かわなければならない。
泣きそうに顔を歪めるリネアを、ミカはしばらく見ていた。
「帰ろう」
答えは、出ないまま。
静かな資料室に、どこからか祭の祈りの声が小さく届いた。




