46 均衡の卓
アーヴェル家のタウンハウスは王都中心部にあり、白壁と淡い金の装飾で統一されている。
威圧ではなく、整然。
豪奢ではなく、精緻。
門扉の奥にある庭も建物も、計算された均衡の上にある。
柔らかな秋の陽射しの中でも、目に見えない緊張が張りついていた。
その邸宅の階段の上にはエドガル・ルワモンが立っている。
クロウを認めた瞬間、顔が歪む。
「……は?」
わざとらしい沈黙のあと、
「お前!なんでここにいる!」
「招待を受けた」
「誰にだ」
「アーヴェル家から」
「俺は聞いてない」
「ルワモンは、当主ではない」
「関係あるか!」
階段を二段飛ばしで降りてくる。
無駄に勢いがある。
「ノクエルが何の用だ。絶対に面倒事だろ!」
「落ち着け」
「落ち着いてる!」
全然落ち着いていない。
「エドガル」
上から声が落ちた。
ぴたりと止まる。
「客人に無作法はおやめなさい」
「イリス様、ですが——」
「下がって」
エドガルは一瞬言い返しかけ、視線で完全に制される。
不満を残しながらも一礼し、脇へ退いた。
「ようこそ、クロウ・ノクエル」
「ご招待に感謝します。イリス・アーヴェル嬢」
「思ったより早かったのね」
「機を逃すのは好みません」
「それは結構」
お互い口元は笑っているが、目の奥では笑っていない。
「どうぞ。せっかくの昼餐、冷めないうちに」
◇
白磁の皿が美しく並び、磨かれた銀器が整然と光を返す。
大広間ではなく、あくまで私的な客間。
置かれている調度も、供される料理も、すべてが「選ばれた席」であることを物語っていた。
クロウは父の名代として、その席に座っている。
他の席には宰相派の重鎮やその令息が揃っていた。
視線が一斉にクロウへ向く。
招かれざる客。
だが、追い返すこともできない。
当主代理としてこの場に座する、イリスが正式に受け入れた以上、無礼は許されない。
「随分とご無沙汰しておりますな、ノクエル殿」
誰かが、暗に何の用だと棘を含ませる。
「王都は穏やかだと聞く。様子を見に来ただけです」
「穏やかで困ることでも?」
「穏やかすぎると、何かが動いていることに気づきにくいでしょう」
空気が一段冷えた。
ある者は顔を歪ませて、ある者は愉しそうに。
ここに同席する高位貴族たちは、料理より会話を味わいにきている。
エドガルの頬がぴくりと動くが、今は黙っている。
イリスの指先がグラスの縁をなぞった。
「本日は珍しい方にお越しいただき、光栄ですわ」
視線をクロウに向ける。
「王都に来ているなら、ご挨拶は当然かと」
「ご挨拶、ね」
扇の奥で冷えた目が細くなる。
「ご挨拶にしては、ずいぶんと準備が整っていましたわね」
——この席を、強く望んだのはクロウの方だ。
父の縁、旧知の家門、いくつかの伝手を重ねて、同席に滑り込んだ。
イリスはそれを当然知っている。
「急なお願いに応じていただき、感謝します」
「お願い?」
扇の向こうで、口元だけが笑う。
「社交は互いに必要なものですわ。
“お願い”などと仰られると、何か特別な意図があるように聞こえてしまいます」
——探りに来たのでしょう?
言葉には出さない。
だが、そう言っている。
クロウは静かにワインに口をつけた。
「……こちらは随分と静かですね」
「平穏は、守られてこそ価値があるものです」
即答。
「だが、最近の王都は人の出入りが増えていると聞きました」
「祭りが近いですもの」
「信仰も、商いも、冬支度も。
王都は忙しくなりますわ」
“神殿”とは言わない。
“軍”とも言わない。
だが話題の中心はそこにある。
クロウは視線を上げる。
「特に信仰の場が、活気づいているようだ」
「祈りは悪いことではありませんわ」
「ええ、もちろん」
沈黙。
料理が運ばれる。
銀の蓋が上がる。
誰もが食事を続けながら、視線だけは鋭い。
「穏やかな湖面に、波紋が広がる気配は?」
直接は言わない。
しかし核心に寄せる。
イリスは扇を閉じた。
「石は自然に落ちるものではありませんわ」
薄く笑う。
「誰かが投げるのです」
その一言で、立場ははっきりした。
——少なくとも、彼女の側から波を立てるつもりはない。
クロウはわずかに肩の力を抜く。
「では、王都は静かなまま、と?」
「静かであるべきです」
その声に、わずかに棘が混じる。
「平和な治世において、力を誇示するのは美しくありません。
無用な緊張は、国を疲弊させますもの」
クロウは視線を上げる。
「“無用”かどうかは、立場によります」
「ええ。そうお考えの方もいるでしょうね」
毒は柔らかい。
“刃を持つ家”への牽制。
軍や神殿を直接批判しているわけではない。
だが、力の拡張には敏感である、と告げている。
クロウは視線を逸らさない。
「深さを知らずに渡る方が、危うい」
「随分と慎重ね」
イリスは微笑む。
「ですがご安心を。
少なくとも我が家は、湖面を乱すつもりはありません」
ここで、はじめて明確な線が引かれた。
宰相家が神殿と積極的に手を組み、何かを動かしている気配はない。
もし動きがあるなら——
それは別のところ。
神殿の独断か。
イリスもそれを察している。
「信仰は、ときに熱を帯びますわ」
静かに付け足す。
「ですが、熱は長くは続きません。
王都の均衡は、そう簡単には崩れませんもの」
クロウは小さく頷いた。
確証はない。
だが、少なくとも“結託”の匂いはない。
神殿が何か動いているとしても、単独。
それだけでも収穫だ。
食事が終わり、少しの歓談を経てクロウは立ち上がる。
「本日は、有意義な時間でした」
「こちらこそ」
イリスも立ち上がり、最後に一言だけ添える。
「平穏は、守るものではなく、壊さないものです」
視線が真っ直ぐに刺さる。
——あなたが焦って波を立てないことね。
クロウは一礼した。
「肝に銘じます」
◇
玄関ホールへ向かう廊下。客の姿は途切れ、足音だけが静かに響く。
ノクエル家の馬車が門を出ていくのを、エドガルは露骨に顔をしかめて見送っていた。
「……わざわざ招く必要ありましたか?」
イリスは窓辺に立ち、庭の白砂を眺める。
「あるから、招いたの。こちらから探る手間が省けたわ」
「ですが、あいつは面倒です。ノクエルは勘がいい」
「ええ。嫌いではないわ」
エドガルが勢いよく顔を上げる。
「ええっ?」
「“読み合い”が成立する相手は退屈しないもの」
淡々と続ける。
「それより問題は、あちら」
「あっち?どっちです?」
名前は出さない。
エドガルはよく分かっていない。
「雑種は盤面を乱すのよ」
「……ああ。神殿の、あれですか」
ようやく合点がいって、エドガルの声音が低くなる。
「血統も家も背負っていない駒は、責任の重さが違う。美しくない」
「消しますか?」
エドガルは率直すぎる。
イリスは横目で睨む。
「物騒ね」
「でも本音でしょう?」
「本音と品位は別物よ」
扇を軽く閉じる。
エドガルは鼻を鳴らす。
「俺は嫌いですね。平民なんて」
「あなたは単純だから」
さらりと刺す。
「駒の好き嫌いではなく、動かし手を見なさい」
静かな沈黙。
「まあいいわ。まだ盤は静かなまま。
ノクエルも、あれも、勝手に牽制し合えばいい」
やがてイリスは踵を返す。
「私の卓を乱さなければ、それで結構よ」
エドガルはその背を追いながら、ぼそりと呟く。
「……乱したら?」
イリスの唇が美しい弧を描いた。
「均衡を保つのが、我が家の務めでしょう?」




