37 雨の森
ネーリス兄弟の予測通り、今日は朝から小雨が降っている。
霧のように細かい雨に森は湿り、葉の縁から細い雫が落ち続けていた。
視界はやや悪いが、昨日敷いた包囲網と観測の精度は崩れていない。
「北東、接近」
「低速度」
ネーリス兄弟の声が淡々と響く。
小型獣型は、ウサギほどの大きさ。
黒ずんだ毛並みと、濁った目。
単体なら脅威ではないが、群れると厄介だ。
「右、二」
「行くぞ!」
ガイが前に出る。
踏み込んだ瞬間、地面が重く沈んだ。
拳が振り下ろされ、魔物が横に吹き飛ぶ。
武器は使わない。
体重と筋力と、恩寵を乗せた打撃。
魔物の核が砕ける鈍い音。
泥が跳ねる。
「雑にまとめるなよ!」
「わかってる!」
クロウが位置を指示し、エマが後方から増幅を流す。
リネアは魔術で補助しながら、小さな回復を必要に応じて。
ミカは流れを整え、後方の観測精度を支えている。
午前中は順調だった。
的確に魔物を捕捉して、移動経路を塞ぎ、じわじわと追い詰める。
昼前、小休憩で行動食を口にしながら状況を確認する。
事前情報よりも増殖はしていたようだが、魔物の残数は数匹になっていた。
「このまま今日中に終わらせる」
クロウの判断に、誰も異を唱えなかった。
◇
午後に入って、空気が変わった。
「気圧低下」
「天候悪化」
ヨルンとハルンがほぼ同時に告げる。
それからしばらくすると、雨足が一気に強くなった。
地面が急速にぬかるむ。
それでも怯まずに、ガイが一気に踏み込んだ。
斜面に追い込まれた魔物が散開する。
「逃がすか!」
大きく跳躍して、拳を叩き込む。
衝撃で地面が抉れる。
雨で緩んだ土が崩れ、斜面の一部が崩落した。
「ガイ、踏み込みすぎだ!」
「悪い!」
魔物が一匹、横へ跳ねる。
ミカは冷めた様子で観察しながら、先行するガイたちを追っているリネアに目をやった。
昨日の夜も、上手く中には入れなかった。
なら、
(完全に意識がなければどうかな?)
――例えば気絶しているときとか。
ミカは静かに息を整える。
ガイの動き。
エマの増幅。
この距離なら、遠隔でもいける。
今の流れで――少しだけ。
ほんのわずかにミカの恩寵が、二人に触れる。
ガイの神経伝達を、わずかに鋭く。
エマの増幅効率を、ほんの一段だけ押し上げる。
「っ――!」
ガイの踏み込みが深くなる。
拳の衝撃が、想定よりも重い。
同時に、エマの増幅が過剰に乗る。
斜面が震えた。
雨で緩んだ土が、大きく割れる。
「まずい!」
クロウの声が飛ぶ。
だが、遅い。
地盤が連鎖的に崩れた。
リネアが体勢を変えるため、半歩踏み出した場所が沈む。
「リネア……!」
足場が崩れ、身体が流される。
(ここで、意識を)
ミカはごく自然に、リネアに手を伸ばす。
その瞬間。
別の魔物が横から飛び出した。
ガイが反射的に迎撃した。
エマの増幅がまだ強く残っている。
衝撃は、想定より広がって、ミカ自身の足元まで巻き込んだ。
「……あれ」
土が抜けた。
体勢が崩れる。
計算より、一拍早い。
リネアとほぼ同時に、斜面へ滑る。
下には露出した岩。
(これは、少しまずい)
「……っ!」
リネアが咄嗟に地面へ手をかざして魔術を展開する。
ミカとリネアのまわりで崩れる土が、瞬間的に少し固くなって流れが緩やかになる。
それでも崩落の勢いは止まらない。
ミカは致命症を避けるために横へ身体をひねる。
そのとき、リネアが方向を変えて、躊躇なくミカへ腕を伸ばす。
「掴んで!」
迷いがない。
真っ直ぐな視線。
その瞳に疑いはない。
ミカはその手を掴む。
リネアは魔力を流して着地点にさらに魔術を使う。
斜面の一角が柔らかく固まり、斜面の下までゆっくりと流れながら二人の身体を受け止めた。
衝撃で息が詰まる。
雨が強く打ちつける。
「無事か!」
上からクロウの声。
斜面の木々で姿はよく見えない。
「……大丈夫!」
リネアが先に返す。
小さな打撲と、擦り傷程度。
本当に、想定外だった。
(俺が落ちるのは、計算外だよ)
リネアはまだミカの腕を握っている。
「怪我は?」
「平気。リネアは?」
「私も大丈夫」
本気で心配している声。
自分が巻き込まれた可能性など、微塵も疑っていない。
「二人とも!ここまで戻れそう?」
心配の感情を滲ませた、エマの声が届く。
滑落はしたの七、八メートルほど。
見上げた先の斜面には角度があり、ぬかるんで登り返すのは難しそうだ。
リネアが立ち上がって演習服のポケットから紙を取り出す。
泥だらけの地図にさっと目を落とした。
「ここからは難しいと思う!
このまま南東に一キロ進むと等高線が緩やかな鞍部がある。そこまで移動して合流する!」
「了解!」
「無事に来いよ!」
ガイの声が悔しそうに響く。
◇
斜面の上で皆が移動する気配を感じつつ、リネアは自分の体の異常を確認する。
土が柔らかかったおかげか、大きな痛みはない。
そして、ミカに向き直る。
こちらも、特に目立つ怪我はなさそうだった。
けれど。
「ふふ」
堪えきれないようにリネアが笑いだした。
「……?」
「お互い、泥だらけだね」
昨日、泥だらけは嫌だって言っていたのに。
そう言われてミカは自分の姿を改めて見る。
髪も、顔も、服も何もかも。二人は頭からつま先まで泥と雨で酷い状態だった。
「だから、雨は嫌だったんだよ」
一拍おいてから少しおどけてみせる。
不思議とミカにも、笑いが込み上げた。
(……やり方を少し変えてみるか)
それでもまだ、目の奥に冷たさは残したまま。
雨は、まだ止まない。




