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38 境界

 崩れた斜面から離れ、二人はしばらく黙って歩いた。


 雨は容赦なく降り続け、足元を小川のように流れていく。

 歩く道のすぐ隣は、谷へ向かって滑り落ちるような地形になっていた。

 少し下を流れる沢の水かさは増している。

 濁流とまではいかないが、濡れた石は滑りやすく足場は不安定だった。


「……ちょっと待って」


 リネアが足を止めた。


 ミカの肘に、さっきは気づかなかった擦り傷が見えた。

 袖が裂けたところの奥で、細い血が滲んでいた。


「少しだけ、治すね」

「え、いいよ。このくらい」

「だめ。感染したら面倒」


 リネアは言い切って、手を伸ばす。

 ミカの腕に触れる指先は、雨より少し冷えていた。


 光が、薄く灯る。

 同時に。


 ミカの恩寵が、触れた部分からほんのわずかに滑り込む。

 分からないくらいの、癖のない侵入。


 魔力回路の奥で、流れが引っかかっているのをミカは確認した。

 焼けた跡のように、途切れて、壊れた場所。


 それだけじゃない。

 リネアの顔色が、ふっと落ちる。


「……っ」


 ほんのわずかに息が浅くなる。

 本人は誤魔化そうとしているが、肩が一瞬だけ強張った。


「もういい」


 ミカが、すぐに言った。


「え?でもまだ――」

「いいって。十分」


 早い。

 さっきまで「このくらい」って笑ってたのに、今はきっぱり切る。


 リネアが戸惑った顔をする。


「……何か変だった?」

「違う」


 ミカは軽く首を振る。


「俺の傷より、リネアの顔色の方が気になる」


 リネアは黙って、手を引っ込めた。

 掌にはまだ、薄い熱が残っている。


「……ごめん」

「助けてもらったのはこっちだよ。さっきもね。

 言いそびれてたけど、ありがとう」


 ミカは尾根の方を見て、顎で示す。


「行こう。皆が待ってる」

「うん」





 岩がゴツゴツとした目の前の道は、歩きにくい代わりに道を失いにくい。

 石の間を水が走り、泥は少ない。

 二人は地図を時々見返しながら、慎重に足を進める。


 リネアが言った。


「こんなに泥だらけになるの、初めてかも」


 自分でも少し笑ってしまうくらい、ひどい。

 髪も、服も、どこもかしこも。


「初めて?」


 ミカの声が、少しだけ跳ねた。


「うん。ここまで全身は……」

「へえ」


 短い相槌。

 それから、ミカは足元の泥を軽く蹴る。


「さすが貴族令嬢。泥と縁がない人生」


 からかいの形をしている。

 でも、ほんの少しだけ温度がない。


 リネアはすぐに反論できず、視線を落とした。


「……そういうわけじゃないよ」

「じゃあ、何?」


「……」


 言葉に詰まる。


 泥じゃなくて、別のもの。

 外に出ない理由の方。

 恩寵と対価のことを言えば説明は終わる。でも言わない。


 ミカは、それ以上は追わない。

 追わないのに、ふっと笑った。


「まあ、いいや」


 言葉は軽いのに、どこか突き放した結論だった。


「……ミカは、こういうの慣れてるの?」

「どうだろ」


 ミカは雨に濡れた前髪を払う。


「泥の方がマシ、って場面はあったかな」


 何気ない言い方。

 でも、聞き返せない種類の言葉だった。

 リネアは、そっと息を吐く。


「……そう」


 沈黙が落ちる。

 お互いにこれ以上は踏み込まない。

 それでも、歩く速度を合わせて合流地を目指す。





 合流地に近づくにつれ、森の音に人の気配が混ざってきた。


「――おい! こっちだ!」


 ガイの声。

 その次に、クロウの短い呼びかけが飛ぶ。


「無事か」


 二人は視線を交わし、最後の緩い登りを越える。


 そこには、仲間たちがいた。


「リネア、ミカ!」


 エマが先に駆け寄り、腕や肩を素早く確認する。


「大きな怪我はないね。よかった」

「……泥の方がひどい」


 リネアが言うと、ガイが豪快に笑った。


「それは全員だ!」


 クロウは斜面の方角を見上げて、眉を寄せる。


 雨は強いまま。

 崩れた土はまだ湿っている。


「今日はここまでにする」


 クロウが言い切った。


「足場が悪すぎる。無理に追うより天候の好転を待つ」


 ヨルンとハルンが、淡々と頷く。


「魔物も残存少数」

「明日は天気回復」


「……悪かった!」


 ガイが、悔しそうに大きく謝罪する。


「調子に乗って勢いよく、踏み込み過ぎた」

「反省は後だ」


 クロウは短く返す。


「まず戻る。整えて、明日終わらせる」


 その声に、全員が頷いて野営地へ向かって歩き始める。

 リネアは最後に、隣のミカをちらりと見る。

 ミカはいつもの顔をしていた。

 何も変わらない、軽い笑み。

 さっきの会話でほんのわずかに感じた翳りは、もうどこにも見えなかった。

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