36 これから
野営地にはタープが二枚、低く張られていた。
男女で大まかに場所を分け、地面には野営用コットの上に防水布と毛布を重ねただけの簡素な寝床がある。
焚き火の灯りもここまではほとんど届かず、周辺の闇は濃い。
最初の見張り役を終えたネーリス兄弟が戻ってきて、入れ替わりでガイとエマが立ち上がった。
「異常なしか?」
「包囲網、安定」
「よし、行くか」
ガイの大きな背が闇に溶けてから、しばらくすると、すぐに寝息が増えた。
そのすぐ傍でミカは横になったまま、目だけを開いている。
月は雲に隠れて光は乏しいが、だいぶ慣れてきた。
ゆっくり起き上がって、視線を滑らせる。
少し前方で、クロウはタープの下ではなく岩を背にして眠っていた。
浅い眠り。
すぐに目を覚ましそうだ。
ミカは慎重に足音を殺し、少し離れたもう一つのタープに近づく。
「……っ」
目の前で眠る、リネアの呼吸は浅い。
眉間に少し皺が寄っていて、毛布を握りしめる手は固い。
しばらく誰も起きる気配が無いのを確認してから、ミカはそっと膝をついた。
リネアのうっすらと汗で張り付いた前髪を少し払ってから、額に指先で触れた。
冷たい感触に、リネアの強張っていた顔が、ほんのわずかに緩む。
そのまま、ミカは恩寵を使う。
すぐ入口で薄い膜が張ったような感触がある。
静かな拒絶。
「へえ」
集中する。
もう少しだけ踏み込んだ。
その刹那に見えた、白い揺らぎ。
奥の方で、微かに光るものがある。
さらに、深く入ろうとした瞬間。
幕を降ろしたようにぶつりと視界が暗転した。
これ以上は無理だ。
思ったよりも、拒絶が強い。
それが彼女の意思なのか、奥に"ある"もののせいなのかは分からない。
ミカは恩寵を使うのはやめて、手は額から引かずに、じっとリネアを見る。
呼吸は浅く苦しそうなままだ。
「……」
初めて触れたときから、他の生徒とは違う何かは見えている。
ただ、まだ届かない。
(君は何をもらったんだろうね)
それから、どれくらい観察していただろうか。
背中から低い声が聞こえて、手を離す。
「何をしている」
クロウが鋭い眼で立っていた。
「うなされてた。気になっただけ」
いつもの軽い調子で返す。
クロウは少し眉をひそめて、リネアの様子をうかがう。
「リネア」
肩を軽く揺らす。
まぶたがゆっくり開く。
「……クロウ?」
「見張りの番だ。起きれるか」
一瞬、夢の名残を追うように視線が揺れる。
「……うん。大丈夫」
「悪い夢でも見てた?」
「覚えてない」
リネアは体を起こすと、ミカの問いに苦笑いをして答えた。
立ち上がって演習着を少し整えると、クロウがその横に並ぶ。
「ミカ、今夜は寝ておいた方がいいよ」
「分かってる。いってらっしゃい」
そう言って、二人の背中が焚き火の方へ向かう。
ミカはその様子を見送る。
「……まだ、機会はある」
淡々と誰にも聞こえない声で呟くと、今度こそ眠ることにした。
◇
焚き火の炎は低く保たれている。
薪がはぜるたび、火の粉が小さく弾けた。
リネアは小さな金属のカップを二つ、火にかける。
湯がふつりと揺れ、夜気に白い息を吐いた。
「砂糖はないけど」
「問題ない」
クロウにカップを手渡す。
乾いた葉を落としただけの簡素な茶。
それでも、指先からじんわりと温もりが戻った。
クロウは枝を一本足し、炎を整える。
しばらく無言が続き――
「昔、こういうのをやったことがある」
ぽつりと落ちた言葉に、リネアは顔を上げた。
「野営?」
「ああ」
「屋敷の庭に天幕を張った。本物のつもりで。
レオニスが言い出して、俺が付き合った」
「怒られなかったの?」
「使用人に見つかった」
ほんのわずかに、微笑む。
「夜になる前に撤去だ」
「ふふ」
「それでも、火を起こして、寝袋を広げて……子どもの真似ごとだ」
「セラフィナは?」
「夕方に菓子を持ってきた。夜は甘いものが必要だと」
想像がつく。
あの三人の、当たり前の並び。
(あのくらいの歳、かな)
神殿で出会った、幼いクロウ。
初めての対価で倒れた自分を、背に乗せてくれた日。
クロウは、あの日のことも、自分のこともきっと覚えていない。
幼馴染の結束。
共有してきた時間。
リネアは、そこにいなかった。
夢の中と同じ、物語の外側。
それがほんの少しだけ、寂しい。
「リネアは?」
不意に問われる。
「どんな子どもだった」
「……今と、あまり変わらないよ」
茶を一口含む。
「本ばかり読んでた」
「外には出なかったのか」
「兄が、時々連れ出そうとした。セイルも一緒に」
肩をすくめる。
「でも、あまり気乗りしなかった」
「なぜだ」
少し、言葉を探す。
「……なんでかな」
外を走り回ることで、心配をかけたくなかった。
自分の中だけで完結していれば、家族はリネアの恩寵のことで不安にならずに済む。
だから、いつも、屋敷の図書室に逃げこんでいた。
知識に没頭すれば、
夢を解き明かせば、
何か意味があると思えた。
不完全なままの自分にも、役割があると。
昔も、今も。
「今にして思えば、もっといろいろやってみればよかった」
声は軽く。
本音は、もう少し重い。
「もっと、勇気を出して」
家族やセイルが、時々向けてくる視線には気づいている。
何か言いたげな、でも言わない目。
炎が、ぱちりと鳴る。
夜気が頬を撫でる。
「これからやればいい」
クロウは少し考えてから、短く言った。
「校外演習が終われば、短期休暇だ」
炎越しに視線が合う。
「時間はある」
言い切る声音には、迷いがない。
リネアは、一瞬だけ言葉を失う。
過去は共有していない。
でも――、未来は、違う。
「……うん」
小さく頷く。
「じゃあ、まずはこの演習を無事に終わらせないと」
「ああ」
炎が揺れる。
少し冷たい夜風の向こうに、明日の気配がある。




