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5 澄子さん



 僕に握られた手首をじっと見て、省吾はしばらく沈黙していた。

 僕はつい、きつく握り締めすぎてしまったことに気づいて手を緩め、改めて彼を見た。


「……ね。省吾くん。だから、今すぐとは言わないけど……考えてみて欲しいんだ」

 言いながら、僕は今度は両手で包み込むようにして、彼の手首をそうっと握った。

「…………」

「僕はこのとおり、別に何の力もない。金銭的なことはもちろんだけど、体もこんなので頼りないのは分かってる。だから、『君を守る』だなんて、おこがましいことは言えないと思うけど。でも、それでも……君をひとりにしておきたくない」

「…………」

「君がもし、『うん』と言ってくれるなら、僕もがんばるよ。君を少しでも支えられるような、そんな男になりたいと思う。……こんなんじゃ、ダメかな……?」


 とたん、省吾がふるふると首を横にふった。

 僕は少しほっとして笑った。そうして彼の手首を持ち上げて、顔の前で握りなおした。


「お願いだから……考えてみて?」


 手の向こうにある省吾の顔は、真っ赤になってゆがんでいた。その両の目からぼろぼろと、こんどこそ大粒の雫が落ちかかるのを、僕はだまって見つめていた。




◆◆◆




 それからも、僕らはそれまでとさほど変わらない日常を過ごした。朝と夜、弁当箱をやりとりする関係もそのままだった。ただ、省吾のそのときの表情と、弁当の中身には多少の変化があったけれど。


「だからさ。ぜってー女だろって言うのよ!」


 上沼だった。

 彼は、僕がこっそり開いた弁当箱をいつの間にか背後から見下ろしていたのだ。

 さっきまで部屋の中に姿も見えなかったはずなのに、いったいどんな早業だろう。どういう身のこなしだ。こいつの先祖は忍者かなにかではあるまいか。

 まったく、油断も隙もない。


「うはあ、うっまそう……」

「いや、『うまそう』じゃなくて本当に美味しいけどね」

「わかってんだよ! うるっせえよ。黙れリア充!」


 うっかりすると可愛い形のソーセージなんかをあっという間につまんで持っていかれるので、僕はそうっと蓋で弁当を隠すようにした。

 蓋の下はというと、実は以前にも増して華やいでいる。飾り切りした海苔だのハムだのトマトだのが、まさに春の野を彷彿ほうふつとさせるようなあでやかさだ。


「そのうえ、なんだよこれは。かっわいいラブメッセージ付きとかさ。どうなのよ。空気を読めよ。独りもんの気持ちももう少しおもんぱかってくれっていうの!」

「いや、そういうんじゃないってば……」


 髪をかきむしるようにして絶叫している上沼のそばをそっと離れて、僕は弁当ケースの中に一緒に入れられていた小さな封筒からカードを取り出す。

 近頃では、省吾はこれを書いて入れるのを楽しみにしているらしい。内容はごく簡単な伝言やなにかに終始しているけれど、選ばれた品のいい花柄のカードから、彼の心のこまやかさが匂ってくるようだった。


『今日は午後から寒くなるみたいです。暖かくしてがんばってください』とか、『今日は少し帰りが遅くなる予定です。弁当箱はドアノブに掛けて、先にお休みください』とか。

 自分の本当の姿をカミングアウトしてからこっち、彼は本当に大和撫子かと思うようなその内面を僕に隠さなくなっていた。


 あれから結局、僕の告白に対するはっきりとした返事は聞けずじまいだったけれど、彼の気持ちそのものは、これらのことから十分に伝わっているように思えた。

 いや、伝わってくるだけに、僕はなにか生殺しにされている蛇のような気分だった。


 あんな僕よりがっしりした、一見して立派な成人男子にしか見えない人を、いじらしくて可愛くて抱きしめたくて仕方がないのにそうはできないでいるなんて。

 自分がこんな風になってしまうだなんて、去年の秋までは予想だにしなかったのに。

 




「なんだか浮わついてるわねえ、俊介くん」


 夕方からの家庭教師アルバイトを終えてアパートに戻ると、なぜか入り口付近で大家の澄子さんが待ち構えていた。

 三月も後半になり、新しく高校を卒業した人たちがアルバイトに応募してくれたおかげで、僕は晴れてコンビニのバイトを辞めることができたのだ。


「春めいてきたのは、どうやらアパートの周りだけじゃないみたいね。そんなことで研究がはかどるのかしら」

「え?」

 きょとんとしたのであろう僕を見上げて、小柄だけれど恰幅のいい女性である澄子さんは疑わしげな目になった。

「とぼけるんじゃないの。分かってるわよね? ウチはアパート内恋愛禁止よ。このところ、どうも風紀が乱れてるからね」

「……あ」

 僕はつい、片手で顔の下を覆った。


 そうだった。

 すっかり忘れていた。

 キャンディさんという一風変わった前例はあるけれど、このアパートはもともと「女人禁制」だ。そしてアパート内での恋愛沙汰は絶対ご無用。それがこの澄子さんの定めたいわば「鉄の掟」なのだから。

 僕が一瞬のうちに考えたことなどすべてお見通しという目をして、澄子さんはぐいと僕に近づいた。


「別に、あたしはそういう恋愛に偏見はないほうよ。ここらあたりで大家をしようっていうんだから、それっくらいの度量はなきゃ、やってらんないし。でも、この中では男女はもちろん、そういう関係での恋愛もご法度。そこは曲げないから、そのつもりでね?」

 ちちち、と舌で音を鳴らし、どこかで見たようなやりかたで顔の前で人差し指をゆらして見せる。

「は……はい……」

 僕は小さくなって、何度もぺこぺこと澄子さんに頭をさげ、逃げるように部屋に戻った。


(困ったな……)


 家賃も安く、大学にも近くて、風呂やトイレなんかは共用で不便ではあるけれど、住み慣れてしまえばここはとても住み心地がよかった。先ほどの澄子さんは、厳しいところはあっても本当はとても気持ちが温かくていいかただし、店子の皆さんとも仲良くできていて、気に入っていたのだけれど。

 もしも省吾との関係がこれ以上進むのであれば、どうやら新しく住む場所を考えなくてはならないようだ。とはいっても、これだけ安い物件は探してもなかなかあるものじゃない。仕事の時間は今のままでもすでにギリギリで、これ以上増やせば本命の研究そのものにまで支障が出てしまう。

 でも、だからといって省吾とのことを諦められるかと言ったら、それも無理な相談だった。



 その日、省吾はずいぶんと帰りが遅かった。

 僕はまた研究論文のデータ整理などをしながら、彼の足音が聞こえるのを待っていた。

 彼の帰りがよほど遅いときには、弁当箱は僕が洗っておくことにしている。省吾はああ言ってくれるけれど、これは最低限の礼儀だろうとも思っているからだ。


「省吾くん、お帰り。ちょっといい……?」


 僕はいつものように作業服のままで戻ってきた省吾に声をかけ、少し驚いた様子の彼を自分の部屋に招きいれた。



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