4 手首
『こんにちは。書き込み見ました。一度会わない?』
『そっちが好きな男の子なんだね。僕、タチなんだ。一晩どうかな』
そこに入っていたのは、そういう類のいかがわしいメールばかりだった。
省吾は目を疑った。しばらくは現実のこととは思えなかった。しかし、それは明らかに自分にあててのメッセージだった。
自分は何もしていないのに、相手は省吾が「そういう少年」で、みずから「そういう関係」を望んでいるのだと思っているようだった。中には明らかに一晩の値段を提示しているようなものもあった。
どうやらどこかのいかがわしいサイトに、自分の情報を勝手に流した者がいるらしかった。
混乱する頭で、それでもどうしたらいいのかと考えている間にも、次々に同様のメールが入ってくる。
(どうしよう。どうしたらいい……!)
もちろんこんなこと、親には相談できない。
もしも自分が本当の女性であったなら、さまざまに逡巡はしながらも、親や警察に相談できたことだろう。しかし、自分はそれができる立場にはない。いや、少なくともそのときの省吾には、そうとしか思えなかった。
自分のこの秘密を、これ以上誰かに知られるなんて耐えられなかった。
親には言えない。
警察だって、当てにはできない。
友達なんて、だれもいない。
だれも、自分を救ってなどはくれないのだ――。
省吾は絶望した。目の前が真っ暗になった気がした。
こうしてせっかく、ぬくぬくと家に閉じこもって隠れているつもりだったというのに。もう一生、誰の目にも触れないで生きていこうと思っていたのに。彼らは自分を、どうあっても逃がしてはくれないらしい。
もうだめだ、と、そのとき思った。
世界中が、自分を指差して笑っている。
もう自分はこれから一生、どこへ行っても後ろ指をさされ続ける。
そうして追い払われるのだ。
「普通」ではないこの体と心を嫌い、さげすむすべての人たちによって――
……………
そこからの省吾の記憶は、とても曖昧だ。
ぐるぐると視界が回り、どたんばたんとあちこちに体を激しくぶつけたような気がするけれど。
ともかくも。
次に気がついたときにはもう、省吾は近くの救急病院に搬送されたあとだったのだ。
◆◆◆
そこまで話して、省吾は僕のプレゼントのバングルをするりとその手首からはずした。そうしてそこを上にして、僕のほうへと差し出した。
そこには蚯蚓腫れのように盛り上がったリストカットの痕が、まだ生々しく刻まれていた。
僕は声をなくして、その傷をじっと見つめた。
「衝動的に、やってしまったんだと思います。あとで聞いたら、バスルームが真っ赤になっていたそうで」
「…………」
それですぐ、省吾はまたバングルでそこを隠した。
「それからはまあ……高校は当然、辞めて。通信でなんとか高校卒業の資格は取って、遠くの大学に入ったまではよかったんですけど」
これでやっと、新しい環境での新生活が始められると、省吾も家族も思っていた。
でも、一度ネットに流れた情報というものは、なかなか彼を逃がしてはくれなかった。
大学にも男性としての姿で通っていた省吾だったが、自分のことがばれるのを恐れてあまり深く友達づきあいをしようとはしなかった。サークルにも入らず、講義を受ける以外の活動はほとんどしないで、アパートと大学をただ往復するだけの生活を続けていた。
実を言えば、省吾はあれ以来、群れた男性らを見ると形容のしようのない恐怖を覚えるようにもなっていた。粗暴な態度の男たちは当然のこと、多少品のいい成績優秀な男子学生たちでも、廊下などで行きあうと体が竦んで動けなくなる。
それは時には呼吸困難を伴った。どっと冷や汗が出て、体じゅうが震え、立っていることも難しくなる。そんなときには省吾は、近くのトイレに飛び込んで落ち着くまで待つしかなかった。そんなことはしょっちゅうで、まともに講義に出られないことも多かった。
街路でも、特に制服を着た高校生の集団を見るとダメだった。省吾はそういうグループを見るとさりげなく道を避け、そばのコンビニなどに避難して、彼らがゆき過ぎるのを待たねばならなかった。
そんな苦労をしながらも、それでも省吾はどうにかこうにか大学生活を送っていたのだ。
しかし。
「結局……それも夏休みあたりまでしかもたなくて。さすがに高校のときのようないじめみたいなことはなかったんですけど、噂が学内に広まっちゃって」
バングルの上から手首をさするようにしながら、省吾は静かな声で話を続ける。
「最後はまた、逃げるみたいにして……こっちへやってきたんです。あとは大体、ご存知のとおりです」
そこまで聞いて、僕はふと、とあることを思い出した。そうして恐るおそる訊いてみた。
「あの……はじめての時、あの道に倒れていたのは?」
「ああ」
省吾はふふっと笑って見せた。僕にはそれが、ただただ傷ましいものに見えた。
「あれは、ろくに食べていなくてふらふらしていたら、たまたま怖いお兄さんたちにぶつかってしまって。虫の居所が悪かったんでしょうね。やっぱり怖くて、自分、身が竦んで声も出なくて。そうしたら『生意気だ』って思われちゃったらしくて……。無駄に、こんな目つきだし」
「…………」
省吾の話をそこまで聞いて、僕はしばらく呆然としていた。
薄々そうじゃないかとは思っていたけれど、彼がそこまで酷い目に遭っていたなんて。
何も言えずに彼を見つめているばかりの僕に、省吾は少し居住まいを正して頭を下げた。
「すみません。こんな話、しても困るだけですよね。俊介さん」
「あ、いや。……ごめん。僕に言えることなんて、ほんと……何も浮かばなくて。ごめん……」
「いいえ」
省吾は今度は、はっきりと笑顔を浮かべた。
「聞いていただけただけで、すごく嬉しい。……こんなこと、人に話すの初めてだから」
「え? あの、キャンディさんには……?」
「キャンディさんには、色々と勘付かれてはいると思いますけど。あのかたも、本当にこれまで色々あったみたいなので。でも、少なくとも自分は、こちらからこういう話をしたわけじゃありません。本当です」
「そ、そうなんだ……」
僕はまた、自分の胸になんとも言えない恥ずかしさがこみ上げてくるのを感じた。
つまらない嫉妬。まるで子供のようなそれを彼に見透かされたような気がした。
でも、省吾は少しもそんな風ではなくて、ただ困ったように窓の外を見ただけだった。
「あの……。これで、分かったでしょう。もう時間も遅いですし、お話はこれで――」
「え? な、なに言ってるの……」
そう言ったら、もう立ち上がりかけようとしていた省吾は意外そうに「え?」とこちらを向いた。
「だから、もうお分かりになったでしょう? 自分はそんな奴です。とてもじゃないけど、俊介さんに大事にされるような人間じゃない。こんな、情けなくて……とっくに汚れてて。だから」
言いながら、すいと目線をはずす。その目の中には、とうにあきらめたような光があるだけだった。
「いや、待ってよ……!」
そうか。
彼は僕に、それを理解させるためにこれらのことを話したのか。
こんな、普通だったら一生口をつぐんで、語れるはずもないような話を。
「なに言ってるの。めちゃくちゃだよ。省吾くんのどこが、それで汚れてるっていうの」
「え? だって……」
「省吾くん自身が、何か悪いことをしたのでも何でもないんじゃないか。なんでそれで、君が罪を犯した人みたいな顔をしなくちゃならないの。僕にはまったく、納得できない」
「俊介さん――」
今度は省吾が呆然としたようだった。
「君は、『汚れてる』って言ったけど。本当に汚れてるのは、君をそうやって気まぐれに虐げたり、弄んだりした人たちの方だろう。糾弾されるべきなのはすべて向こうだ。君がこれからの人生の何かをあきらめたり、失ったりする必要なんか、ひとつもない……!」
僕はしゃべりながら、どうしようもなく激してくる自分の声を抑えることができなかった。
「なんでこれ以上、失わなくっちゃならないんだ。そんなの、おかしい。絶対、僕には承服できない……!」
「…………」
省吾はただただ、困惑したような顔だ。
「これ以上、君が傷つくなんて」
言いながら、僕はぐいと腕を出し、ほとんど強引に彼の手首をぎゅっと握った。彼のその、痛々しい傷のあるほうの手首を。
「僕には、我慢できないよ……!」
僕に握られた手首をじっと見て、省吾はしばらく沈黙していた。





