6 キス
部屋に入ってきた省吾は、少し青ざめた顔をしていた。
聞けば、なんと澄子さんは彼のことも一階で待ち構えていて、僕にしたのと同様に、彼にも釘を刺したのだということだった。
「すみません。俊介さんにまた、ご迷惑をおかけして……」
省吾はかわいそうなぐらいに大きな体をちぢこまらせて恐縮している。
「いや、僕のほうこそごめん。いつまでも中途半端なことで、君に嫌な思いをさせちゃって」
「いいえ!」
省吾は必死に首をふる。
「本当は、急かすつもりもなかったんだけど。これはもう、はっきりさせないといけないのかなと思う。まあ、ここでのルールを無視して僕のほうで勝手に告白しちゃったんだから、全部僕のせいなんだけどね。本当にごめん――」
「そんな……」
省吾は畳の上に正座したまま、ひざの上の拳をきつく握ったようだった。やがて、何かを決意したようにぎゅっと唇を噛んで顔を上げた。
「すみませんでした。なるべく早く、こちらからは出て行くようにします。これ以上、俊介さんにご迷惑は掛けられません」
「なに言ってるの!」
僕は思わず大きな声をあげた。
「省吾くんはついこの間、部屋を借りたばっかりじゃないか。次の敷金だとかなんだとか、すぐに準備できるの? ほかの物件で、ここまで安いところなんてそうそうないよ」
省吾は沈黙して、自分の膝のあたりを見つめている。僕はやるせないものが喉の奥からあがってくるのを覚えた。
ここを出て、いったいどこへ行こうって言うんだ。
また前のようにぼろぼろになって、ゴミ溜めみたいなところで転がるようなことになったらどうするんだ。
初めて彼に会った時のあの惨状を思い出して、僕は身内が震えるようだった。
「君をまた、ネカフェやなんかに戻らせるなんて、とんでもないよ。第一君は、中身が女の人なんでしょう。今でも、見知らぬ男たちが怖いとも言ってたじゃないか。僕は、なんだかんだ言っても少しぐらいなら蓄えもある。出て行くんだったら、間違いなく僕のほうだよ」
「そんな……」
「ああ。でも、こういう方法もあるよね」
「え?」
僕は、それがいかに自虐的なことかを十分に分かっていた。でも、苦笑しながらごく淡々と言ってのけた。
「君が、僕を振ってくれればいいんだ。そうすれば、別にどちらもここを出て行く必要なんかない。弁当を作ってもらうとか、こんな風にお互いの部屋を行き来するとかいうこともなしにしよう。普通に、ただの店子同士としてのお付き合いをする。それで問題は解決だよね。そうでしょう?」
「…………」
省吾は絶句して、呆然と僕を見つめ返した。
「そもそも、僕がいけなかったんだ。君が、僕の告白を断りにくいことなんて分かっていたのに。君のことだからどうせまた、『俊介さんは命の恩人なんだから』とかなんとか、変な遠慮をしてたんでしょう。本当にごめん。そのうえ、優しい君の気持ちにつけこむみたいにして、弁当なんて作ってもらっちゃったりして」
「そ、それは……!」
省吾がびっくりして首を横に振ったけれど、それ以上はやっぱり言い出せないという顔で俯いて、また黙り込んだ。
彼の表情のなかにまだ一縷の希望が残っているような気がして、僕はわずかに膝を進めた。そうしてごく静かな声で訊いてみた。
「それとも……いや? そうするのは」
「…………」
省吾は、今にも泣き出しそうな顔だった。それでもやっぱり、心のうちを聞かせてくれる様子はない。彼の心の中にいま大きな嵐が吹き荒れていることは、その様子からでもじゅうぶん分かった。
僕はしばらくそんな彼を見て考えていた。
けれど、やがてふと思いついて聞いてみた。
「君は、どっちなんだろう。『ノー』と言いたいのに、言えずにいるの? それとも……その逆なんだろうか」
「…………」
「もしかして……『イエス』って、言いたいと思ってくれてる……?」
省吾が目をいっぱいに見開いてこちらを見ている。
その目がまた、見る見る潤んでくるのを僕は見ていた。
「そんな風に……うぬぼれてみても、いいの……?」
彼の瞳を潤ませたものが、とどまりきれずにあふれ出す。それと同時に、僕は両手を伸ばしていた。
彼を抱きしめるとすぐに、耳元に嗚咽が聞こえだした。それは、ずっと我慢していたものがとうとうあふれ出した、そんな風な声に聞こえた。
ああ。
この人は、まだまだいっぱいのことをその心に抱えこんでいる。
言いたいことはたくさんあるのだろうに、それを僕にも言えなくて、ずっと悩んでいたのに違いない。
もともと繊細なうえ、手ひどく甚振られて傷だらけのその心には、もう手一杯の悩みだったはずなのに。
「……ごめんね。泣かせたかったわけじゃないんだよ」
腕の中からは「ちがう」とか「ごめんなさい」とかいう涙声がする。震えている彼の肩を、僕はさらに力をこめて抱きしめた。
「言いたいこと、言ったらいいんだよ。怖がらなくていいんだ。僕は怒ったりしないから」
まるで子供にするようにして、彼の頭をぽんぽんたたき、そうっと撫でる。
「だって……自分なんかが」
掠れた声が耳元から聞こえて、僕は苦笑した。
「『なんか』じゃないでしょ。そんなこと言わないでよ。僕の好きになった人なんだから」
「…………」
「僕の好きになった人は、とっても素敵な人だよ。上沼から、弁当のこと、毎日どんなに羨ましがられてると思ってるの。ここのところ、冗談じゃなく、ほんと殺されそうな勢いなんだからね」
そう言ったら、省吾はかすかに頬を赤らめたようだった。
「お母様にだって、そんな……許していただけると思えないし」
「母のことは関係ないよ。言ったでしょう? あの人はもう、信二のことだけで頭がいっぱいだ。前にちょっと言ったけど、今は信二、車椅子バスケに夢中でね。その送迎だとか応援だとかで、けっこう楽しくやってるんだよね」
それは事実だった。
信二は地元の車椅子バスケチームに参加するようになってから、とても生き生きとそれに打ち込むようになったのだ。
どんよりと気落ちして老け込んでいた母も、のめりこむようにしてプレーする息子を見ているうちにすっかりあのスポーツの虜になって、今じゃあっちの大会、こっちの大会へと付いていってはマネージャーまがいのことまでやっている。
健常者がするものだって相当にハードだけれど、あのスポーツは確かに見ごたえのあるものだ。僕もちらっと見に行ったことがあるけれど、バスケ用の車椅子がまるで昔の映画で見た古代の戦闘用馬車のように激しくぶつかりあい、見ているだけでも胸が熱くなってしまう。
僕のするそんな話を、省吾は目をまるくして聞いていた。
「わかるよね? だから、何も心配いらない……とまでは言えないけど、大丈夫。僕はもうれっきとした大人なんだし。大人になった息子が誰とつきあおうが、よっぽどおかしな相手でない限り、親が口出しすべきじゃないでしょ?」
「でも……自分は」
「省吾くん」
さらに言い募ろうとする彼の声を、僕は敢えてさえぎった。
そして彼の肩を掴むと体を離し、間近からその目を覗き込んだ。
「答えて。君の答えは『イエス』なの。それとも、『ノー』なの……?」
言ってから、僕は自分の手を彼の肩から頬へと移した。彼の顔をはさみこむようにして、顔を近づける。お互いの鼻先が、もう触れそうな距離だった。
省吾に抵抗する様子はなかった。その心のうちで鬩ぎあっているものは確かにあるようだったけれど、それでも彼は、僕の手を拒む様子はいっさいなかった。
僕はもう、彼の言葉を待たなかった。
それでそうっと、彼のそれに僕の唇を重ねあわせた。





