7 相談
結果からいって、僕らのファーストキスはうまくいかなかった。
なぜって、それはまあ、お互いの経験値の少なさによるところが非常に大きい。何より僕のこの大きな黒縁眼鏡が、どうにもこうにも邪魔だったのだ。
僕らの唇がほんのわずかにかすったところで、省吾の目のあたりに眼鏡のふちがぶつかって、それはあえなく終了となった。
僕らはそこから、しばらくお互いに「ごめんね」「いえ、こちらこそ」を繰り返してぺこぺこし合い、省吾は真っ赤な顔のまま自分の部屋に引き取っていった。
でも、ひとまずそんなのでも、そのときの僕らには十分だった。
だってこれで、晴れてお互いの気持ちを確認できたんだから。
省吾は僕を、好きになってくれている。
それも、単なる「恩人」だとか「友人」だとかいう立場を超えた関係としてだ。
僕はしばらく天にも昇るような心地でぼんやりと、ついさっき省吾が閉じたばかりの、ただの古ぼけた板の扉を見つめていた。
◆◆◆
「あらあら。そうなの。ぴよぴよちゃんたちは、やーっとそういうことになったワケね」
例によってキャンディさんが、太目の体をゆすりあげるようにしながらそう言い放ったのは、それから三日ほどあとのことだった。
「……面目ないです」
「申し訳ありません」
僕らは二人で彼女の部屋にお邪魔して、ここしばらくのことの顛末を話したのだった。二人して彼女の前で正座をし、頭を下げる。
「で? あたしが首突っ込むことでもないんだけど、気になるから訊いちゃうわよ。これからどうするの、あなたたち」
「そう、そこなんです」
僕はちょっと隣の省吾を見てからキャンディさんに目を戻した。
僕らが正式にお付き合いを始めるにあたり、当然問題になるのは例の「このアパート内での恋愛禁止」というルールである。
もしもこのまま彼と付き合い続けるつもりなら、どちらかがこのアパートから出るというのが筋だろう。しかし、僕も省吾も経済的な問題があり、すぐにそうすることは難しい。僕は今以上にバイトを増やすことはすでに物理的に難しいと言ってもいいぐらいのものだったし、それは省吾にしても同じだった。
いや、省吾はもっと難しいだろう。彼はさまざまの事情があって、いまだに親に保証人になってもらったり、こちらへ住民票を移したりといった基本的なことができずにいる。高卒の資格があるだけで、そういう後ろ盾をなにも持たない彼は、生活してゆくための基盤になるものが非常にもろいのだ。このまま今の仕事を続けていても、省吾が必要な蓄えをするのはなかなか難しいに違いなかった。
今回、僕らがキャンディさんに相談したのはそのことだった。
キャンディさんなら、同僚の方たちの色んな経験なんかもよくご存知であるのに違いない。つまりこれは、経験豊富な彼女からいいアイデアを頂くことはできないかと、二人で相談しての行動だった。
「ん〜、そうねえ。澄子さんには申し訳ない話だけれど、そりゃどっちかがここを出て行くのが妥当な線よね」
「はい。どこか、少しでも入りやすい物件などをご存知じゃないですか? それも、その……こういうカップルが身近にいても大丈夫そうなところ、ということなんですが」
「あ〜。そうよねえ……」
キャンディさんは考えるように、その太い指でふっくらとした自分の頬をてんてんとつつくようにした。
「家賃もそこそこ、交通の便もいいところっていうと、今じゃ大概ふさがってるしねえ。ちょっと難しいかもしれないわよね」
「そうですか……」
がっかりして目線を落とした僕ら二人を、キャンディさんは意味深な目で見下ろした。
「まあだけど、どっちか一人ってんじゃなしに、こうなったら『二人いっしょに』って手もありなんじゃない? そうすりゃ家賃は折半できるし、今より確実にいいところに住めるわよ」
「えっ……」
「大きな声じゃ言えないけど、いまどき風呂なし、トイレとキッチン共同なんて、いつの時代よって話よ。あたしはここが居心地いいから居ついてるけど、まあ人に勧められたもんじゃないしさ。でしょ? 澄子さんには悪いんだけどさ」
(二人で、いっしょに……?)
僕らは思わず、互いの顔を見合わせた。目が合った途端、省吾がぶわっと赤面した。
僕もつられて、自分の耳がかっと熱くなるのを覚えた。
一緒に住む。
そんな、いきなり階段の何段とばしっていうような話をされても困ってしまう。
やっとのことでお付き合いを始めたとは言っても、僕らはまだ、ほんの触れるだけのキスをたった一度きり、しただけの間柄なんだから。
当のキャンディさんはと言えば、何もかも見透かしたような目で僕らを思う存分観察してから、「ふむ」と首との境のよくわからない顎に指をあてた。
「でもま、だからっていきなり物件購入ってのはやめときなさいね?」
「え?」
「こういうのは、急ぐとろくなことにならないわ。付き合いたてほやほやのお二人さんにこう言っちゃなんだけど、すぐにお金の絡む話にするのは、どうも賛成できないのよねえ……」
「と、おっしゃいますと?」
僕の言葉に、キャンディさんはにまっと笑った。それはいかにも、老獪な先生が青くさい生徒に向かって「謙虚に聞く気があるんだね、大変よろしい」と言うときのような笑顔に見えた。
「そりゃ、いるわよ? 大好きなダーリンとラブラブで、すぐにどこかに二人で部屋を借りたりなんかしちゃう子もね。そりゃまあ、それでうまく行きゃあ御の字なんでしょうけれど。そうはいかないのが、あたしたちみたいな者なのよねえ。ま、ノーマルのカップルだってそこはそう違わないんでしょうけど」
キャンディさんの言は、こうだった。
そもそもあまり恋愛のうまくいく確率の高くないキャンディさんのような人たちは、うまくいったことそのものが嬉しくて舞い上がり、周りが見えなくなりやすい。それは経験の浅い若い子ほどそうなのだそうだ。
それで、彼氏に「俺、手持ちが少なくてさ」なんて言われると、つい「いいわよいいわよ、あたしに稼ぎがあるんだから」とばかり、無理をして高い買い物に走ってしまう。借家ならばまだいいのだが、それが高級マンションで、何十年もののローンを組むようなことになったりするので困ったことになりがちなのだと。
「そりゃ、分かるのよ? 大好きダーリンとのラブラブマイホームなんですもの。ちょっとぐらい見栄を張ったり、無理しちゃったりさ。可愛いもんよ。でもおバカ。そういう可愛いおバカほど、ほんと嘘みたいにぽーいと捨てられちゃってさあ。ひどいのになるとあんた、アレよ? その大事な愛の巣に、別のオンナやらオカマやら引き込まれて、好き放題きゃっきゃうふふされちゃってる始末よ。そのアホほど積みあがったローンのために、必死こいてこっちが働いてる間によ? 笑っちゃうでしょ? まあ本人は、厚化粧垂れ流した汚い顔で、ヤケ酒くらってオンオン泣くしかないわけなんだけどさ」
「…………」
僕らは二人とも、ただ絶句してキャンディさんの話を聞いていた。俗に言う、「目が点」なんていうあれだ。いや本当に、そうしているしかできなかったんだ。
それにしてもこれ、本当にキャンディさんの同僚さんの話なんだろうか。その自嘲ぎみの笑顔の裏に、彼女自身の悲哀がちらりと見えたような気がして、なんだか僕は胸がふさがるような思いがしたのだけれど。
「ま、それはそれとして、よ」
最後にとうとう、キャンディさんは確かに「ちょっと話しすぎちゃった」とでも言いたげな苦笑を浮かべ、省吾にこう言ったのだ。
「ちょっと、省吾ちゃんに提案があるんだけど。いいかしら?」と。
そうしてそれは、僕らをはっきりと新しいステージに引き上げる、とても重大な提案だった。





