2 お返し
その年の三月十四日は、暦のうえではもうすっかり春ではあったけれど、外にはまだ冷たい風が吹いていた。
僕はその日、いつもより少し早く帰宅して、弁当箱を返すタイミングを見計らっていた。その日は省吾のほうが帰宅時間が遅くなったからである。
渡すつもりのプレゼントの包みをちゃぶ台の上に置き、その横でノートパソコンを開いて作業していたら、静かな足音と遠慮がちに鍵を開ける音がした。省吾だ。
僕は立ち上がり、自分の部屋の扉を開けた。
省吾は自分の部屋の前に、今日の仕事着だったらしい作業服姿で立っていた。扉の音に気づいてぱっと振り向き、やや面食らったような顔をしている。
「省吾くん。……あの」
省吾の目が僕の手にある弁当箱ともうひとつの物にそそがれ、やがてはっきりと嬉しそうな色を湛えた。
それだけで、僕にもわかった。彼がちゃんとこの日を待っていてくれたのだということが。そう思った途端、僕の胸の中にもふわっと、わきおこる暖かな風を感じた。
「お帰り。お疲れ様」
「はい。ただいま……です」
「お弁当、今日もごちそうさまでした。いつも本当にありがとう」
僕は彼に近づいて、弁当箱のほうを先に渡した。
「あ、……いえ」
省吾がうけとって、ふと笑う。その軽さが嬉しいのだとすぐにわかった。
「……それと、これ」
弁当箱の上に包みを乗せる。手のひらに乗るほどの大きさのそれは、近くの雑貨店の包装紙につつまれていた。
「この間は、ケーキありがとう。……お返し、です」
「…………」
省吾の瞼がなんどもぱちぱちと開閉される。瞳がきらきらしている。
「ありがとう、ございます……」
彼の声がちょっとかすれていた。
「開けてみて?」
僕が笑って促すと、省吾は持っていた小さめのショルダーバッグを下ろし、その上に弁当箱を置いて、改めてその袋に手を掛けた。
「あ。これ……」
出てきた茶色い革製のバングルを見つめて、省吾は驚いたようだった。女性用の品だと細めのものが多かったのだけれど、やっぱりデザインは女性用のほうが繊細なものが多くて、そこからなるべく男性の手首でもつけられそうなものを探したのだ。
「そのサポーター、だいぶ古くなってるみたいだったから。これならおしゃれにつけられるかもって。あ、一応、男性でもおかしくないかどうかとか、ちゃんと店員さんにも相談してみたんだけど。どうかな……?」
「…………」
僕がいろいろ言っているうちに、省吾はもう、とっくに泣きそうな顔になってバングルを抱きしめるようにしていた。
「嬉しいです。ありがとう、ございます……」
(……ああ。こういうとこだよな)
先日、半纏をプレゼントしたときにも思ったことだ。つい、手を伸ばして触れたくなってしまうような、彼のこういう繊細なところ。僕のほうがやせっぽちで、とても彼のことを守れるような男でもないくせに、この腕の中に入れてしまいたいような、包み込んでしまいたいような、そんな気持ちになってしまう。
実は僕も、あれから例の「ノンケ」なる言葉についてネットで調べた。そしてキャンディさんの言わんとすることをなんとなく理解したのだ。
身も蓋もない言い方をしてしまうと、つまりそれは、男性を愛することのできない性質の男性のこと。その「ノンケ」の人たちがこの世の大勢を占めていることは分かっているけれど、そうでない人たちも一定数、確かに世の中には存在するのだ。
とはいえ僕も正直いって、僕自身がどっちの人なのかなんて、今でもやっぱりよく分からない。これまでの僕のごくみすぼらしい恋愛遍歴の中でも、ほのかな恋心らしきものを抱いたのは女の子相手ばかりだったし、男性に対して特別な感情を持ったなんていうことも覚えている限りでは一度もなかった。
(でも……)
でも、なぜだか省吾のことはとても気になる。
別の男性であれ女性であれ、僕じゃないほかの誰かが彼の中での「一番」になるところを想像したら、とてもじゃないけど心穏やかでなんかいられない。そんなのはもう、あのキャンディさんとの一件で明らかだった。
「ありがとうございます、俊介さん……」
そう言っている省吾の目にうっすらと光るものを見てしまった途端、僕の思考は停止した。そうして次に気がついたらもう、かちんこちんになっている彼をバングルごと、ぎゅうっと抱きしめてしまっていた。
「え、あの……しゅ、しゅしゅ、俊介、さん……?」
省吾が驚愕してどもりまくっている。
目の端に見える彼の耳たぶが真っ赤に染まっているのが分かった。
背の高さも同じぐらいな上、女の子や子供とはちがってしっかりと肩幅のある省吾の体は僕の腕にも余るぐらいだったけれど、僕はそれでもできるだけその体に腕を回してしっかり彼を抱きしめていた。
かわいい。
かわいい。
やっぱり君、とてもかわいい人だと僕は思う。
「部屋、入っちゃダメかな。……少し、話がしたいんだけど」
抱きしめたまま彼の耳にそう囁いたら、省吾はぴくりと体を竦ませ、しばらく逡巡したようだった。
でも結局、「どうぞ」と自分で扉を開けて、部屋に招き入れてくれたのだった。





