1 ヒント
それからもしばらく、僕らはそのままの関係でいた。
確かにあのチョコレートケーキは省吾にとってとても「特別」なものだったのだろうけれど、それがどういう意味での「特別」なのか、僕にはさっぱり分からないままだった。だってそれは、「命の恩人として特別な人」という意味である可能性だって大いにあるわけだから。
僕らは毎日、バイトに大学にと忙しかった。朝晩の弁当箱のやりとりでだけ顔を合わせ、「おはよう」と「おやすみ」しか声を掛け合わない日も多かった。あ、もちろん弁当のことに関しては、僕も「ありがとう」と「ごちそうさま」は言ったけれど。
だけど、実はこのところ、ひとつだけ不思議なことが増えていた。
あれ以来、省吾はアパートのシャワーを使う回数が明らかに減ったようだったのだ。そして、キャンディさんと連れ立って、夜になるとどこかへ出かけることが増えていた。
省吾はそれを僕に知られないようにしているらしかったけれど、そうは問屋が卸さない。時間の不定期なバイトから戻るときなどに、僕は街なかで連れ立って歩く二人を何度か見かけることになったからだ。
省吾は明らかに、キャンディさんと親密になっていた。それはかの人と話をしているときの彼の表情を見ればすぐにわかることだった。ただ親密とはいっても、もちろんそういう関係としてではないと思う。別に彼らはいちゃいちゃとべたついたり、甘ったるい声を掛け合ったり、腕を組んで歩いたりする風ではなかったからだ。
だからそれはきっと、友人としての親密さなんだろう。僕にもそれだけは分かっていた。
だけど、それでもそんな彼の姿を見るたび、僕の胸の中からはその壁を内側からざりざりと引っかくような、痛みをともなう音がした。その感情の正体について、僕はまだ名前こそつけていなかったものの、いい加減その姿は僕の中でもはっきりとした像を結びはじめていた。それでも僕は、臆病にも卑怯にも、あえてそこから目を逸らし続けていたのだ。
(省吾くん、もしかして――)
いや、たぶん間違いなく、省吾はキャンディさんにとても大切な自分の秘密を打ち明けたんじゃないかと思う。とは言え、彼が自分から言おうと思ったと言うよりは、あの他人を見る目に秀でたキャンディさんが、先に勘付いたのではないだろうか。
そのこともまた、妙に僕の気持ちを波立たせた。
いったい、何があるというのだろう。
省吾が、僕には言えないようなことをあのキャンディさんには相談しているのだと思うと、どうにもこうにも心の中のあの「子供」がまた騒ぎ立てるようで仕方がなかった。
そうこうするうち、あっというまにひと月が過ぎた。
世にいうホワイトデーが近づいてきて、僕はたぶん生まれて初めて、ヴァレンタインデーのお返しのことで頭を悩ませなくてはならなくなった。大学やバイトの行き帰り、僕はあちこちのショッピングモールの店先をのぞいては、ああでもないこうでもないと、ぐるぐると歩き回ることになった。
省吾はどんなものが好きだろう。
どんなものを受け取ったら、僕に彼の一番いい笑顔を見せてくれるだろうか。
だけど、こんな鈍くててんでダメな頭をどんなにひねってみたところで、「よし、これだ」と思えるようないいアイデアはいっさい絞りだされてこなかった。
そうして、三月の十二日。
僕はとうとう観念して、件の人の部屋をひとりで訪ねることになったのだ。
◆◆◆
「あーら、シュンちゃん。どうしたの」
部屋から顔を出したその人は、午後だというのについさきほど起きたばかりといった眠たげな風情だった。それでも比較的こぎれいにしているのは、いかにも心の中が女性のかたらしいというべきか。
僕から用件のあらましを聞いた「彼女」は、「ちょっと待ってね」と言うと、五分後にあらためて僕を部屋へ招き入れた。
「あ〜、なるほど。ホワイトデーねえ。ショーゴちゃんの、あの気合いの入りまくったケーキもらったんですもの、そりゃ奮発してあげなくっちゃよね」
キャンディさんは比較的ゆったりしたピンク色の部屋着姿で僕に座布団を勧めてそう言った。そのどっしりとしたお腹をとりまくフリルのついた布地はおそらく、一般的な女性ものの服の何倍も必要だろうと思われた。
「あ、なんだかその節はキャンディさんのお友達にもお世話になったそうですね。ありがとうございました」
「あら。別にシュンちゃんにお礼なんて言ってもらわなくて結構よん。ヴァレンタインのケーキはあたしも作りたいって思ってたとこだったし、なんてったって楽しかったしね。むしろ、一緒に作れてラッキーだったわ。お客さんに渡しても、十分恥ずかしくないものができちゃったし。ショーゴちゃん、ほんと手先が器用なんだもの」
女性だったら多分ふつうに「妖艶」とかと形容すべきなんだろう微笑みを浮かべて、キャンディさんは貫禄たっぷりにそう言った。
「で、あの……。相談の件なんですけど」
「ああ、そうねえ」
キャンディさんは薄紫色のマニキュアをしたふくふくに太った指でそうっと頬をなで、一応は考えるようにした。
「あたしにそんなこと聞かれても困っちゃうわあ。だってショーゴちゃん、ほんと自分のことはあんまり話してくれないんだもの。とっても聞き上手だとは思うんだけど、自分のことはなるべく意識的に話すまいとしてるから。そのぐらいのこと、シュンちゃんだって分かってるでしょ?」
「そう、……なんですよね」
僕がひそかにため息をつくと、キャンディさんは意味深な目で僕をちらっと見た。
「でも、シュンちゃんには余計に言えないと思うわよ? もちろん、一番大事なことはあたしの口からなんか、もっともーっと言えませんけどね」
「え? それ、どういう……」
が、キャンディさんは僕の疑問などあっさり無視した。
「そうねえ。あの子はとっても乙女なものが好きよ。だから四角四面に『男の子にあげるんだ』とは思わなくていいと思うわ。むしろ女の子が好きそうな雑貨屋さんかなんかで、ささやかなかわいいものを選んであげなさいな。シンプルにお花でもいいわねえ。それが一番、喜ぶんじゃないかしら」
「な、なるほど……」
僕はそのとき、ふと省吾の部屋に一輪だけ飾られていたあの花のことを思い出した。それで眼鏡をずりあげて、持ってきていたメモ帳に言われたことを書き取った。
やがてその手元を見下ろすようにしながら、キャンディさんが言うともなしに呟いた。
「……ま、飽くまでもこれは『物に限ったら』の話だけれどね」
「は……?」
「あ、いえいえ。なんでもないの。要は『プライスレス』ってこと。そっちのほうが、あの子ははるかに喜ぶでしょうってね。そういうこと」
「え、あの……」
言われたことがよく分からなくて、僕はまた中指で眼鏡のブリッジをずりあげてキャンディさんを見た。彼女は少し、もどかしそうな様子に見えた。豊満な体の前で腕を組み、ちょっとだけ首をかしげるようにしてこちらを見ている。
「……んね。いい機会だから訊いちゃうけど。シュンちゃんって、どうなのよ。そりゃ、研究のほうはがんばっててすごいんだってことは知ってるけどさ。どうもあなた、ぽーっとしててよくわかんないからねえ」
「え?」
「だあから。あなたノンケなの? ちがうの?」
「の、……のんけ……??」
なんだそれは。
僕が目を白黒させていたら、「あー! ごめんなさい!」とキャンディさんは急にグローブみたいな手をぶんぶん顔の前で振った。それはつまり、「今のなし」という意味だろう。
「今のは忘れて。ほんっとごめんなさい。ああ、ダメねえ。おせっかいが過ぎるわよね。ショーゴちゃんに怒られちゃう」
「あの、キャンディさん――」
「中年オカマの、くっだらない戯れ言よ。とにかく、あたしに言えるのはそのぐらい。あとはその、ダメダメなおつむで考えて?」
太い指先で、ぴしりと額のあたりを指差される。
「じゃ、話はこれでおしまい。あたしはお店にいく準備があるから」
そうして、僕は迷い込んだ猫でも追い出すようにしてキャンディさんの部屋から外へ出された。
僕は小さなメモを手に、ちょっと途方に暮れてキャンディさんの部屋のドアをしばらく見つめていた。
(『物に限ったら』、ってそれ……)
「プライスレスなプレゼント」。
「のんけ」。
ほとんど意味が分からない。
これはスフィンクスの謎かけか何かだろうか。
ぐるぐると最後のキャンディさんの台詞が頭のなかで回っている。
ぼくはしおしおと俯くと、それでも部屋に戻って上着と財布をとりあげ、夕方の街に出て行った。





