6 信二
それは何の変哲もない、いつもどおりの朝だった。
信二はその日、まったく普通に、普段どおりにランドセルをしょって小学校へ出かけていった。そうしていつもの登校班を組み、六年生の班長と副班長に挟まれて、ほかの子供たちと一緒に一列になり、やや細い車道脇の歩道をきちんと歩いていただけだった。
いや、小さな男子たちがいるのだから、多少は悪ふざけをして道をはみだして歩いたり、そんなことはあっただろうと思うけれど。
ともかくも。
その車は、いつもどおりに歩いて学校に向かっていた、信二たちの班の列にいきなり突っ込んできたのだ。車は友達の何人かも一緒にはね飛ばし、信二の片足を踏みつけて路肩の電柱に激突してからやっと止まった。
まだ小学生だった信二の細い足はぐちゃぐちゃで、もう切る以外にどうしようもなかった。
少なくとも、田舎としては比較的大きなその救急病院の医者はそう判断した。
信二が意識を取り戻したとき、彼は自分の片足がもうそこにはないことを知った。母は信二の前では気丈にふるまい、「命があっただけよかったわよ」と笑顔さえ見せたけれど、サッカーが大好きだった信二のことを思えば泣かずにはいられなかったのに違いない。
見舞いに行った病院の待合室で、流れているテレビ画面を呆然と見つめながらぼろぼろと涙をこぼしている母を見るのが、僕はとてもつらかった。
どうして、羨ましいなんて思ったのか。
明るくてクラスの人気者で、サッカーが得意な弟のことを、僕は一瞬でも羨ましいと、ねたましいと、ちょっと足に怪我でもしたらいいのにと、そんな風に思ったことがなかっただろうか。
僕は自分の心のすみずみにまでメスを入れて、そうして部屋のすみっこにうずくまるようにしてへばりついていたその悪魔みたいな感情にたどりつき、ひとりで慄然とした。
僕のなかにも、それはちゃんと生きて、育っていた。
みにくくて幼稚で、残酷なこどもの心が。
冷静に考えればわかる。だから信二がああいう目に遭ったんだなんて、誰も思わないはずだ。そのときすでに中学生になっていた僕にだって、そんなことはわかっていた。だって僕はそんなこと、わずかでも言葉にしたり、態度にだしたことはなかったんだから。
だけど、だから自分を責めずにいられるかといったら、やっぱりそんなことはなかった。
その認識は、だれよりも重くつらく、僕自身を責め苛んだ。自分の心の中にいる裁判官が、もっとも苛烈で残酷な裁きをくだす。どこかで読んだ本か何かにそんなことが書いてあったのを思い出しては、僕は自嘲の笑みを浮かべるのだった。
本当に裁かれなくてはならないような罪を犯した人なら、最終的には自首をして、曲がりなりにもその罪をつぐなわせてもらう道がある。でも、心の中で犯した罪はどうしたらいいのだろう。こんな話を誰に持っていったところで、それを罰してくれる人なんているわけがない。せいぜいが「ちょっと考えすぎだよ、疲れてるんだよ」って笑って、肩をたたくぐらいのことで。
もちろん、母や信二に言えるようなことでもない。
母は信二のことで心も体もすでに手一杯の状態で、病院から戻ってきたら倒れるようにして寝込んでしまうことも多かった。僕はそんな母の代わりに、うまくもない料理をしたり洗濯や掃除なんかを一手に引き受けなくてはならなかった。
退院してきた信二は、失った片足のことでこちらが思う以上のショックを受けているようだった。それでも、決して僕や母をなじるようなことはなかった。ただ、あんなに明るい少年だった信二がひどく寡黙になり、車椅子や松葉杖を使えば登校できるような状態になっても、しばらくはなかなか学校に戻らないという日々が続いた。
家の中は、それまで太陽のようだった母がすっかり元気をなくしたことで、光を奪われたようになった。信二の前でこそ気を張って、必死に明るくいようと努めているのが、傍で見ている僕にもひしひしと伝わってきた。でもそれは、かえって信二の神経を逆撫でした。
「母さん。笑わないでよ」
「ほんとは、笑いたくなんかないんだろ」
「無理すんなよ。そんな母さん、見たくないんだよ」
とうとう我慢できなくなったようにして信二がそう言い放った日、母は夕食の席を蹴って、着の身着のままで外へ飛び出していってしまった。
動けない体の信二を残して、僕は夜の町を母を探して歩き回らなくてはならなかった。夜遅くなってから、僕はやっと、公園の片隅で隠れるようにして、震えながら泣いている母を見つけたのだった。
子供のように泣きじゃくっている母のもとに、僕はまっすぐ駆け寄った。そうして、すっかり冷たくなった母の体を思わずぎゅっと抱きしめた。
あのときの風の冷たさ。ちらちら舞い始めていた、夜空から落ちてくる雪。
思った以上に細くて華奢だった母の肩。
……その驚き。
そんな、目と肌とに刻まれたいろんなものが、今でもはっきりと思い出せる。
たぶんあの時、僕は大人になったのだ。
◆◆◆
気がついたら、アラーム時計は午前零時を回っていた。
ちゃぶ台の向こうに座った省吾がうつむいて、少しすすり上げるようにしている。
「……ごめんね。つまんない話、しちゃったね」
省吾が必死にかぶりをふる。
こんな話をするつもりはなかったのに。
「ダメだな、僕」
どうも彼には甘えてしまうところがあっていけない。僕のほうが年上なのに、彼には世話になってばかりだ。特にあのインフルエンザ騒動以来、僕にはひどい甘え癖がついてしまったような気がする。
「そんなことないです」
いやにはっきりと否定の言葉が返ってきて、僕は少し驚いた。見れば、省吾が真っ赤になった目で僕をじっと見つめていた。
「俊介さんは、素敵なかたです。……誰が、なんと言ったって」
「……ありがと」
僕が苦笑すると、省吾はむっとしたようだった。
「本気にしてないんですね」
「いや、うん。そこまでじゃないんだけど。……嬉しいよ。ありがとう。あ、ケーキもすっごくおいしかった。ありがと――」
「あの!」
僕の言葉をおしのけるようにして、省吾が強い声を出した。
「あの。誤解してらっしゃるみたいだから、もう言っちゃいますけど」
「え?」
怒ったような省吾の声にちょっと気圧される感じで、僕は少し身を引いた。
とん、と彼の人差し指がケーキ皿の近くをたたく。
「このケーキ。みなさんのと、俊介さんのは違いますから」
「……は?」
何を言われたのかが分からず、僕は二、三度、目を瞬かせた。
「本当は、恥ずかしいから言わないつもりだったんですけど。皆さんのは、はっきり言って失敗作なんです。実は、何度か失敗しちゃって……。その、甘すぎたりだとか、固すぎたりだとか」
「へ、……へえ。そうなの」
省吾でもそんなことがあるんだ。そんな暢気なことをぼんやりと考えていたら、再び大きな声をあげられた。
「だからっ!」
ばっと上げた省吾の顔が、一気に赤くなったのがわかった。
「俊介さんのは、最後に成功した、いっちばん、いいやつですから! ほかの誰にも、同じものは差し上げてません」
「え……?」
それって。
ええっと、いったいどういう意味だろう。
「と……、とと……特別、なんですから――」
竜頭蛇尾とはこのことだ。
省吾の言葉は、最初の勢いなんて嘘だったかのように、しまいには蚊の鳴くような大きさになって、冷たい空気のなかに消えてしまった。





