第4話「文明の砦と、優雅なる夜の晩餐」
夕暮れが落ち、住宅展示場の外側は完全な闇に包まれた。
数日前まで当たり前だった街灯の光も、遠くの幹線道路を行き交う車のヘッドライトもない。
ときおり、風に乗って遠くから「グルル……」という濁った唸り声や、何かがアスファルトを引きずる乾いた音が響いてくる。足が無傷のゾンビは人間並みに走る。5メートル以内に近づかれれば一巻の終わりだし、物音ひとつ立てれば闇の中から全力疾走で突っ込んでくる恐怖がすぐそこにあった。
だが――。
遮光カーテンを三重に締め切り、わずかな光漏れすら許さない鉄壁の防御を施したスマートハウスのリビングは、外の世紀末とは完全に隔絶された「異世界」だった。
「ふう……極楽、極楽……」
大輝が、展示場備え付けの高級アイランドキッチンの前に立っていた。
その手元には、家電量販店から命からがら持ち帰った最新の全自動エスプレッソ&コーヒーメーカー。
スマートハウスの大容量蓄電池から引いた安定した電力によって、マシンは静かに「ウィーン……コポコポ……」と心地よい重低音を響かせ、スタッフルームから回収してきたコーヒー粉から漆黒の液体を抽出していく。
ふわっと広がる、香ばしく芳醇なアロマ。
「おい大輝、お前さっきからめっちゃドヤ顔で淹れてるけど、それスタッフルームの賞味期限ギリギリの挽き豆やろ」
リビングの超高級カウチソファに深く沈み込みながら、陽介が笑う。
「アホ言え陽介! どんな豆だろうがな、この高圧抽出のクレマ(泡)を見ろ! これがプロの味ってもんよ。実家で弟と妹に朝飯作って鍛え上げられた俺のカフェスキルを舐めるな」
大輝はモデルハウスの食器棚にあった真っ白なブランドカップにエスプレッソを注ぎ、陽介と蓮の前に優雅な手つきで差し出した。
さらには、展示場を漁って見つけてきた来客用の個包装マドレーヌと高級バウムクーヘンを、まるで星付きレストランのように皿の中央へ上品に盛り付けている。
「……うまっ。いや、普通にカフェやんこれ」
陽介がカップを傾けて息を吐く。
「外は一歩出たら全力疾走の生ける死体がウロウロしとるのに、俺ら今、坪単価100万超えの豪邸でアフタヌーンティーキメとるぞ」
「これぞQOLの勝利やな」
隣で蓮が、満足そうに眼鏡を押し上げた。
蓮の首には、家電量販店から回収したBluetoothネックスピーカーが収まっている。さらにその手元には、大容量モバイルバッテリーで満充電されたスマートフォン。
「電波は死んでるけど、オフライン保存してあったジャズのプレイリストが生きてる。ネックスピーカーなら耳元だけに音が広がるから、外のゾンビに聞かれる心配もない。……ほら、完璧なBGMだ」
リビングに、耳元だけに届く控えめな音量で、小粋なピアノジャズが流れ始める。
「最高やな。……で、本日のメインディッシュは?」
陽介が聞くと、大輝が得意げに胸を張った。
「安心しろ。十種競技の現役アスリートが菓子とコーヒーだけで足りるわけないやろ。ガスボンベは夜間やいざという時の非常用に温存して、蓄電池が生きてる間は備え付けの文明をフル稼働させるぞ。今夜はこれや!」
大輝がアイランドキッチンのフラットなガラス天面――最新式のトリプルIHクッキングヒーターの電源を入れる。
『ピピッ、加熱を開始します』
上品な電子音とともに、IHのトッププレートに赤いLEDリングが鮮やかに浮かび上がった。
置かれたのは、モデルハウスのシステムキッチンにあった高級ワイドフライパン。
パカッとフタを開けると、立ち上ったのは――香ばしいソースとだしの匂い。
「ジャーン! エコキュートの清潔な湯で戻したカップ焼きそばと、スタッフルームの非常食の白米をドッキングさせた、特製・炭水化物爆弾そばめし(紅生姜と乾燥キャベツ増量マヨネーズがけ)や!」
「うおおおおおお!!」
陽介と蓮の目がカッと見開かれた。
「最新IHの超強火でパラパラに炒め上げた! 火も煙も出ないから換気扇を回す最小限の音だけで済む! カロリーは一人前あたり推定1200キロカロリー! タンパク質は来客用のフリーズドライ大豆スナックを砕いて投入済みや!」
「お前……家庭的どころか、もはや専属シェフやろ……!」
スプーンで山盛りのそばめしを口に放り込む。濃厚なソースの塩気と脂、そして熱々の炭水化物が、逃走劇で極限まで擦り減っていた身体の隅々にまで染み渡っていく。
「うっっま……! 死ぬ……いや死なんけど、生き返るわ……!」
「外でカップ麺啜るのと、最新キッチンの間接照明の下で食うのとじゃ、同じメシでも味が五割増しやな」
腹が満たされ、三人分の胃袋が温かい幸福感で満たされたところで、陽介が立ち上がった。
「よし。腹も膨れたし、いよいよ俺の『秘密兵器』を起動するぞ」
陽介がリビングのテーブルの上に設置したのは、あの手のひらサイズの小型レーザープロジェクターだ。
スマホとケーブルを繋ぎ、電源を入れる。
シュン、と小さな起動音とともに放たれた鮮烈な光が、スマートハウスのリビングの真っ白で広大な壁一面をキャンバスに変えた。
壁に浮かび上がったのは、巨大な100インチの大画面。
「うわ……でっか……!」大輝が思わず見上げる。
「壁紙がフラットな高反射タイプだから、専用スクリーン並みに映像が綺麗に出てるな」蓮がガジェット好きの視点で唸る。
陽介がスマホのアルバムをタップした。
大画面に映し出されたのは――つい数ヶ月前、夏の大会で三人で汗だくになってポーズを決めている写真だった。
棒高跳びでポールを抱えて笑う陽介。
砲丸を顎に当てて変顔をしている大輝。
スパイクを片手にタイム掲示板の前でクールにピースサインを出している蓮。
続けて流れたのは、合宿場の食堂で、大輝が作った山盛りの唐揚げを三人で奪い合って爆笑している短い動画。
スマホのスピーカーからは、懐かしく、眩しいほどの笑い声が小さく響いた。
「……あいつら、元気にしてるかな」
大輝が、マグカップを両手で包み込みながらぽつりと呟いた。
実家の両親。まだ小学生の弟と妹。練習が終わるたびに「兄ちゃん、お腹空いた!」と駆け寄ってきた日常の記憶。
「電波、いつか戻ると思うか?」
「分からん」蓮が静かに首を振った。
「でも、政府もまだ潜伏してて、自衛隊の駐屯地も持ちこたえてる場所があるはずだ。一斉にパンクしただけで、全員がやられたわけじゃない。……それに、俺たちのスマホにはこうやってあいつらが生きてた証拠も、俺たちが生きてる証拠も全部残ってる」
「せやな」
陽介が二人の肩をポンと叩いた。その顔には、いつもの底抜けに前向きな笑みが戻っていた。
「俺らは十種競技の男やぞ。走って、跳んで、投げて、どんなクソみたいな種目でも最後まで完走して得点稼ぐのが仕事や。世界がゾンビだらけになったくらいで、リタイアしてたまるかよ」
陽介は大画面の写真を、展示場に逃げ込んできた直後に三人で撮った「ドヤ顔の自撮り」に切り替えた。
背景には、豪華絢爛な最新モデルハウス。手にはエスプレッソとそばめし。
「見ろよこの絵面。世界滅亡の真っ只中で、京都一優雅にキャンプしとる大学生やぞ。まずはこの展示場を俺たちの完全なる城にして、美味いもん食って、身体鍛えて、生き抜く。そんでいつか、家族や生き残った奴らをここに迎え入れて、デカいコミュニティ作ったるねん」
「……ははっ、言うのはタダやもんな」大輝が吹き出す。
「だが、理論的には悪くない計画だ」蓮も眼鏡の奥で笑った。「この展示場にはあと十棟以上、最新のテクノロジーを詰め込んだ家が眠ってる。太陽光、蓄電池、エコキュート。全部合わせれば、ひとつの小さな町に匹敵するインフラだ」
夜は更けていく。
壁一面のレーザープロジェクターの灯り。
耳元に流れる静かなジャズ。
手元にある淹れたてのコーヒーと、暖かい毛布。
外の世界がどれほど無秩序な地獄へと堕ちようとも、厚い断熱材と三重のカーテンに守られたこの空間だけは、彼らが手放さない「人間の尊厳」と「優雅な日常」に満ちていた。出した。




