断章/イオタ=シャン -1 大図書館
銀曜日は、いつも図書館で静かに過ごすことにしている。
もちろん本は読むけれど、それが目的じゃない。
ただ、学園から離れたかった。
静かにさせるという条件付きで入館を許可してもらっているシィが、ぼくの腕の中で安心したように目を閉じている。
静かにしてと頼んだら静かにしてくれるのだから、シィはとても頭がいい。
「……はあ」
何もかもが上手くいかない。
昨夜、久し振りに会うことのできたお父さんとも、緊張してまともに話すことができなかった。
きっと呆れているだろうな。
何故上手くいかないのか、理由はおぼろげながらわかっている。
そもそも、上手くいくだなんて、自分自身がいちばん信じていないからだ。
ぼくは、きっと、このまま何もできず、何も成せないまま、情けない大人として恥を晒して生きていくことになるだろう。
たとえ全優科を卒業したとしても、ぼくがぼくであることからは逃げられない。
いっそ、死んでしまえたらよかった。
ぼくが死んだら、エイザンやドズマは、すこしでも後悔してくれるだろうか。
「……笑うだろうな」
それはそれで癪だという気持ちだけで、なんとか命を繋いでいる気がする。
ぼくは、本棚を見上げた。
どれだっていい。
一人で時間を潰すのが目的なのだ。
開架の最奥には専門的な歴史書ばかりが並んでおり、人が来ることはほとんどない。
でも、今日は違った。
数名の男女が本棚の前に立っている。
「──…………」
誰かがいると落ち着かない。
べつの、人のいない場所へ行こう。
そう思い、きびすを返したときのことだった。
──ドムッ!
「ご、……ほッ……!?」
振り返った先にいた四十代ほどの男が、いきなりぼくの鳩尾を殴り抜いた。
「……また殴られたくなければ、静かにしろ」
ぼくの体が恐怖に引き攣る。
死んでしまえたら。
そんなことを考えた罰なのだろうか。
気が付けば、ぼくは、羽交い締めにされていた。
一人が麻袋を持って近付いてくる。
これに詰めて運ばれるのだろうか。
どこへ?
ろくな場所ではないに決まってる。
恐怖に怯えていると、ぼくの頭上を旋回していたシィが、大声で鳴いた。
「──ぴぃイ!」
「チッ……」
一人の女がシィに手を伸ばすが、シィはさらに高く飛んでそれを避ける。
図書館の天井が高くてよかった。
だが、それで済むほど甘い相手ではなかった。
女が魔術の矢を作り出す。
いけない。
「──やッ、やめ……、たす──うッ」
声を出したためか、再び殴られる。
シィ、お前だけでも逃げてくれ。
しかし、その期待は、もろくも崩れ去った。
魔術の矢はフェイントだった。
炎術の矢を撃つふりをして、灯術でシィの意識を逸らした直後、背後の男が本棚を足場にして軽々とシィを捕らえたのだ。
そして、シィの口を塞ぐ。
嗚呼──
これが、怠惰の報いだろうか。
ぼくは本気で生きようとしなかった。
周囲に流されながら、惰性で日々を過ごしてきた。
反抗するという選択肢すら、ぼくの心には存在しない。
もう、いい。
好きにしてくれ。
捕らえられても、逃げおおせても、その先にあるのは絶望だけなのだから。
そうして、体から力を抜いたときのことだった。
「何してんだ」
誰かの声に顔を上げる。
それは、昨夜、アンパニエ・ホテルでたまたま顔を合わせた男性だった。
ぼくはいいから、逃げて。
そう言おうとした瞬間、二人の男女が頷き合い、一瞬で男性との距離を詰めた。
あ──
死ぬ。
人が死ぬ。
ぼくなんかのために、死んでしまう。
ぼくは思わず目を背けた。
だが──
「──は?」
不思議そうな声に、思わず目を開く。
すると、男女の肩に互いの短剣が刺さっていた。
何があった?
「その子を離せ」
「──…………」
そこから先は、何が起こっているのかすらわからなかった。
男がナイフを投げた──気がした。
でも、次の瞬間には、そのナイフは投げた当人の太股に突き刺さっていた。
強い──の、だろう。
でも、強すぎて、どのくらい強いのかすらわからなかった。
「どうすんだ、デイコスさんたち」
まだ無傷の二人が動揺する。
「コミュニケーションの基本は自己紹介だよな」
男性がそう告げ、慇懃に一礼した。
「──初めまして。カタナ=ウドウと申します」
「ヒッ」
シィを捕まえていた女が、引き攣った声を上げた。
「だ、駄目。関わったら駄目……!」
「引くぞ」
誘拐犯たちがその場から逃げていく。
解放されたシィが、ぼくたちの周囲を嬉しそうに飛び回った。
「──ふう」
一つ息を吐き、カタナと名乗った男性がぼくに話し掛ける。
「大丈夫だったか、イオタ」
武勇を誇るでもなく、恩に着せるでもなく、ただただぼくを心配していた。
この人にとって、今の行動は、落としたハンカチを拾って渡すのとなんら変わらないのかもしれない。
本当に、強い人だ。
お礼を言おうとして、
「──けほッ」
咳が出た。
嫌な予感はしていた。
過度の緊張で、あれが出たのだろう。
「……あ、ありが……、けほッ!」
「おい、腹でも殴られたか……?」
「い、いえ……、その。お、お強い、ん、ですね……」
カタナさんが、困ったように答える。
「……まあ、平均よりかはな」
その言い方が引っ掛かった。
自分の強さを恥じているように聞こえたからだ。
「ほら、そんなことより」
カタナさんが、いつの間にか尻餅をついていたぼくに手を差し伸べる。
「は、はい……」
その手を取る。
ぼくを立たせたあと、カタナさんが不思議そうな顔をした。
「……? その手はどうした?」
「あっ」
しまった、もう出ていたのか。
ぼくは、慌てて、浮かび上がってきた鱗を隠した。
気持ち悪いと言われるのが、怖かったからだ。
「それ、昨日はなかったよな」
鋭い。
話を逸らそうとも思ったけれど、それどころではないことも確かだ。
「……く、薬、飲まないと……。お、お爺ちゃんとこ、い、行かな──げほッ、けほ!」
本格的に咳が出てきた。
まずいな。
しばしの思案ののち、カタナさんが言った。
「お爺さんのところに薬があるんだな」
「……は、はい」
「わかった」
カタナさんが屈み、ぼくに背中を向ける。
「ほら」
「え──」
「連れてってやるよ」
「そ、そんな……」
そんな迷惑なんて、かけられない。
身長が低いとは言え、ぼくは男で、それなりに重いはず。
それに、お爺ちゃんの家だって、遠くはないけどすぐ近くでもない。
でも。
一人で歩けと言われたら、かなりつらい。
「知り合いが苦しんでるのに放っておけるほど、冷たい人間じゃないんでね」
その言葉で覚悟が決まった。
ぼくは、カタナさんの背中に、そっと体重を預けた。
「──よし、と」
カタナさんが、軽々とぼくを背負って立ち上がる。
杞憂だったかもしれない。
広い背中だ。
「ぴぃ!」
シィが、カタナさんの頭に止まる。
「お前もか……」
カタナさんが苦笑した。
「お爺さんの家、案内してくれるか」
「は、はい……」
開架の最奥から出ると、昨夜カタナさんと一緒にいた三人の女の子たちがこちらへ駆け寄ってきた。
唯一名前を知っているヤーエルヘルさんも一緒だ。
そんな場合ではないのだが、やはり可愛い。
「──わ、わあ! ど、どうした、……の?」
「イオタさん……?」
金髪の少女の目が鋭くなる。
「厄介事か」
「厄介事ですわ。まず図書館を出ようぜ。歩きながら話す」
「わかった」
「……す、すみません、ぼくのために……、けほ!」
「いいから」
カタナさんは、優しくそう言うと、ぼくを背負ったまま大図書館を出た。
このときは、ぼくは、まるで思っていなかった。
ぼくを背負っているこの人が、ぼくの一生の師匠になるだなんて。




