1/ハシュラム -1 秋の前節十六日
アルクハルヴァ神殿を出ると、外は朝焼けに煙っていた。
赤橙に染まった白亜の神殿は、美しく、荘厳で、厚塗りの油絵のようにも感じられた。
ヤガタニに問う。
「……本当に、あれから一晩しか経ってないんだよな?」
「ええ、安心してください。今日は間違いなく秋の前節十六日です」
アーラーヤが、しみじみと口を開いた。
「不思議なモンだなあ。あれから一ヶ月、鍛錬鍛錬鍛錬の日々だったってーのに、外ではたったの一晩か」
この一ヶ月の修練を思い返す。
「実のところ、こんだけ実戦を意識して切磋琢磨を続けられたのは初めてだった気がする。ラーイウラでは基礎トレーニングも多かったし、なんやかんや実戦の緊張感で研ぎ澄まされた感じもあるし」
「俺も、こんだけ濃密に己を磨けたのは久々だったぜ。格下相手に実戦するとすぐ殺しちまうし、格上相手だと今度はこっちがやられちまう。その点カタナなら、本気でやっても死にゃしねえからな」
「とは言え、アーラーヤの治癒術には何度世話になったか……」
「いいってことよ。治癒術の腕まで上がった気がするしな」
「──…………」
呟くように尋ねる。
「俺たち、特位に届いたと思うか?」
「……どうだろうな。正直言って、陪神級や奇跡級特位みたいな超人になれた気はしねえ。だが、今ならヘレジナの嬢ちゃんといい勝負ができる気はしてる」
「そうか」
アーラーヤの見立ては、すこしだけ間違っている。
俺は、ヘレジナの強さを、当のヘレジナ本人よりも深く理解している。
だから、わかる。
今のアーラーヤとヘレジナが戦えば、十本中九本はアーラーヤが取るだろう。
本来、一ヶ月やそこらで級位の昇格を果たすのは容易なことではない。
にも関わらず、俺たちが明確に腕を上げることができたのは、俺とアーラーヤの実力が拮抗していたからだ。
本気で殺し合っても死なない相手。
そんな理想的な相方がいたのは、双方にとって幸運だった。
「──んで、クロケー。随分静かだな」
言いながら、アーラーヤが背後を振り返る。
「ア、……ウン。緊張してきて」
「おいおい、今から緊張してどうすんだよ。ここからパレ・ハラドナまで四日はかかるぜ」
「ソウなんだケド……」
だが、クロケーの気持ちもわかる。
「準備ってのは、すればするほど不安になってくもんだよ。逆に、ぶっつけ本番だと意外と緊張しなかったりするんだ。不思議なことにな」
「そういうモンかな……」
「それでも、今回の準備は必要なものだった。クロケー、そいつはお前も理解してるだろ。いちばん強くなったのはお前なんだからさ」
「……アア」
クロケーが、自らの手のひらを見つめる。
「今のオレが、本当に通用スルのか。確かめてみたい」
「慌てなくても、実戦は絶対訪れるさ。なにせ、真正面からパレ・ハラドナに入れるかどうかも怪しい」
プルの処刑がいつになるかわからない以上、俺たちは最速でパレ・ハラドナへと入国するしかない。
直線距離だけで言うのであれば、トレロ・マ・レボロからパレ・ハラドナまで直接入国するルートも、あいだにハウルマンバレーを挟むルートも、そこまでは変わらない。
だが、ハウルマンバレー経路では、高地に築かれた第二州エンティカを通るか、第三州オートゥードまで迂回する必要がある。
短くとも二日や三日は余計にかかると見たほうがいいだろう。
とは言え、現在の政情において、トレロ・マ・レボロからの入国者をパレ・ハラドナが容易に認めるとは思えない。
無条件降伏を強要したパレ・ハラドナから見れば、トレロ・マ・レボロの亜人はすべてテロリスト予備軍のようなものだ。
となれば、答えは一つしかない。
密入国だ。
「……しッかし、どーっすっかなあ。俺、密入国の経験とかないんだけど」
アーラーヤが得意げに言う。
「俺は何度かあるぞ」
「マジで? 頼もしいわ」
「ま、そこらは騎竜車に乗ってから詰めようぜ」
「だな」
ヤガタニへと向き直る。
「ありがとうな、ヤガタニ。お前のおかげで強くなれた」
「私は、私のしたいことをしただけです。それに、発案はクロケーですし」
「……マア、ウン」
クロケーが、照れたように目を逸らす。
「それより、他に入り用なものはありませんか? 必要であれば、神殿内で出してきますよ。私の記憶にあるものに限りますが」
「いや、俺はこいつだけで十分だ」
左の腰に差した長剣の柄を軽く叩いてみせる。
薄刃の長剣。
ラーイウラ王城での御前試合で、ジグに刀身を蒸発させられたものだ。
ヤガタニの記憶にあったものを、神殿内でのみ使えるヤーエルヘルの権能の残滓で取り出してもらったのである。
問答無用ですべてを蒸発させる白き神剣では不都合な場合もあるだろう。
「俺も、獲物は手に馴染んだものがいいんでね」
「同ジく」
「保存食はアホほど買い込んだし、水もある。金も、ティムにシーグル、エルロンド金貨まであるんだから困りはしないだろ」
「そうですか」
ヤガタニが、そっと頷く。
「それでは、皆さんに、陪神の加護を」
そう言って、ヤガタニがアーラーヤの手を取る。
「お、なんだなんだ?」
そして、アーラーヤの手の甲にキスを落とした。
アーラーヤが敬虔な表情を浮かべる。
「……こいつは光栄だね」
「クロケー」
「オ、オウ……!」
クロケーが、ガチガチに緊張しながら、ヤガタニに右手を差し出す。
アーラーヤのときと同じように、ヤガタニが、その手の甲に唇を触れさせた。
「──…………」
クロケーの頬が、すこし赤くなる。
「権能を奪われたとは言え、本人が眠りについているとは言え、陪神ヤーエルヘルのくちづけです。なんか効果とかあったらいいですよね」
思わず苦笑する。
「曖昧だな、おい……」
「それでは」
ヤガタニがきびすを返す。
「え、俺には?」
「──…………」
振り返ることのないまま、ヤガタニが言った。
「……まあ、はい。カタナさんは、ほら。いいじゃないですか」
「こんな悲しい気持ちで送り出されると思わなかったんだが……」
「起きてるときは、さすがに恥ずかしいので……」
「え?」
起きてるときは?
「その。ヤガタニさん……?」
「健闘を祈ります。必ずプルさんを連れ帰ってください。それでは!」
それだけを告げて、ヤガタニが扉の向こうへ消えていく。
とぷん、と。
ヤガタニを受け入れた扉の波紋が徐々に鎮まり、ただの白大理石の壁と化した。
「……俺、寝てるときに何されたんだ」
アーラーヤが、にまにまと嫌らしい笑みを浮かべた。
「そらお前、アレよ。アレ」
「やめろお!」
外見はヤーエルヘルそのものなんだぞ!
「カタナサン……」
クロケーの視線が氷より冷たい。
「いやいやいやいや」
「……オレ、プルサンはカタナサンの恋人だと思っテタのに」
「こ、恋人ではない。まだ……」
「その気はあると」
「……まあ、うん」
「ソレなのに、ヤガタニに手を……」
「記憶にございません!」
「クロケー。これが無自覚女たらしだぜ。いつか絶対刺されるやつだから、こうならないようにするんだぞ」
「ワカッタ……」
「──ああ、もう! 行くぞオラッ!」
足元の小石を思いきり蹴り飛ばし、濠に架かった橋を渡る。
アーラーヤとクロケーの二人が歩き出すのが足音でわかった。
随分と締まらない出立だ。
だが、このくらいでちょうどいいのだろう。
これは永遠の別れではない。
プルを救い出し、すぐに帰ってくるのだから。




