1/ハウルマンバレー -終 魔獣、再び
国境から離れるにつれ、人工物が少なくなっていく。
ハウルマンバレーは、平地の多かったウージスパインと比較すると、山脈や河川、渓谷など、起伏に富んだ地形が多い。
騎竜車では往くことのできない道が多いため、等高線のない上面図だけを見れば不可思議で歪んだルートを描くことになる。
俺たちが通った国境検問所から海沿いを往けば、三日か四日ほどでトレロ・マ・レボロへ入ることはできた。
ただし、その場合には、どうしても第八州を横切ることとなる。
俺たちが選択したのは、第六州西バルパルディと第七州東バルパルディを貫くように横たわる山脈を大回りし、おおよそ七日でハウルマンバレーを抜けるルートだった。
宿に泊まる必要がないと言うのは、ルートの想定に対し大きなメリットだ。
一日に進める距離がほぼ一定となるため、自分たちが今どこにいるのかが非常にわかりやすく、道を大きく違えることがない。
そのため、複雑なルートの多いハウルマンバレーにおいては、可能な限り宿を取らずに騎竜車内で野営を行うことにした。
それは、ハウルマンバレーに入って四日目の朝のことだった。
水樽の蛇口を外に向け、騎竜車を降りて水を出す。
「ふゥー……」
顔を洗い、口をゆすいでいると、プルが両手を差し出した。
「は、……はい。かたな。て、手ぬぐい」
「サンキュー」
プルが手渡してくれた手ぬぐいを受け取り、顔の水気を拭き取る。
「井戸水、次の町か村で仕入れないとな。あと一樽くらいしかないだろ」
「そ、そうかも……」
ちょうど騎竜車から降りてきたヘレジナが会話に入る。
「地図によれば、今日の昼には町に着く。水に食材、薪に飼い葉。仕入れられるものは積めるだけ積んでいこうではないか」
「……おあようございましー」
ヘレジナに続いて騎竜車から出てきたヤーエルヘルが、目元を擦りながら挨拶をする。
皆が挨拶を返すと、ふと、プルが尋ねた。
「た、食べたいもの、なにか、……ある? 足の早い食材、で、でも、早めに食べれば問題ないし……」
「そうでしね……」
寝起きのぼんやりとした表情で、ヤーエルヘルが首をかしげて考える。
「──あ、サルナバーレが食べたいでし!」
「さ、サルナバーレ……?」
今度はプルが小首をかしげる番だった。
「トレロ・マ・レボロの、きょ、郷土料理……?」
「でし。あちし、ハルヴァを出るまでは、料理はサルナバーレとトゥイレ、飲み物はお水とスグリ酒しか知らなくて……」
「ど、どんな料理? 材料と、つ、作り方は、わかる……?」
「えと。材料はだいたい。作り方は、ぜんぜん……」
「そ、……そっかあ」
「難しそう、でし……?」
「あ、味を聞いて勘で作ることはできる、……けど。やっぱりレシピがほしいかも……」
「次の町に本屋があればいいんだけどな。トレロ・マ・レボロの郷土料理のレシピ本なんか、探せばありそうだし」
「うむ、探してみようではないか。私もトレロ・マ・レボロの料理は気になっておってな。なにせ、ハウルマンバレーで食べるものが、軒並み塩気が薄くて薄くて……」
「それはマジで思う」
味付け自由で元味が薄く、代わりに調味料が多く置かれている店は、現代世界でもたまに見掛けることがあった。
だが、ハウルマンバレーの食堂には、塩すら置かれていないのだ。
聞けば、ハウルマンバレー料理自体がそもそも塩気の薄いものらしい。
もう一手間二手間加えれば確実に美味しくなると断言できるものばかりで、なんだか未完成の料理を途中で食べているような違和感があった。
プルに両手を合わせ、頭を下げる。
「悪い、プル。今日の昼メシとかも、どっかの店に入るんじゃなくて、プルが作ってくれないか? 俺たち、たぶん、ハウルマンバレー料理自体が口に合わないと思うんだよ……」
「ふ」
「ふ?」
「ふ、うふふ、ふふうへへへへへ……」
しばし怪しい笑い声を漏らしたあと、プルが薄い胸をトンと叩いた。
「ま、まかせなさー、……い」
ヘレジナが、申し訳なさそうに一礼する。
「すみません、プルさま。食事は数少ない娯楽の一つゆえ、やはり美味しいものが食べたいのです」
「う、うんうん! サルナバーレと、とぅ、トゥイレはまだ作れないけど、レシピが手に入ったら作るから、……ね!」
「ありがとうございまし!」
「い、いえいえー……」
そして、それぞれが朝の支度へ戻る。
すっかり目が冴えたころ、ヤーエルヘルが騎竜車の中から魔獣除けを抱いてきた。
「これ! これ、見てくだし。オイルを三日擦り込んだら、ぴっかぴかになったんでし!」
「おおー!」
新品同様と呼ぶには変色が多く見受けられるが、硬くなっていた革がしなやかに生まれ変わっていることはわかる。
こうなれば、経年劣化も味の一つだろう。
「カタナさん! ちゃんと動くか試したいので、純輝石ちょっとだけ貸してくれませんか?」
「ああ、いいぞ。いいよな?」
いちおう、プルにも確認を取る。
「い、いいよー……!」
プルの返事を聞き、義術具から純輝石を外してヤーエルヘルに渡す。
「どうもでしー」
ヤーエルヘルが、魔獣除けの中央にある窪みに純輝石を嵌め込む。
革に刻まれた緻密な術式が、一瞬だけ白く光ったように見えた。
魔獣除けの発動はランダムだ。
数分に一度か二度、まったく規則性なく振動が発生する。
俺たち四人は、息を呑み、じっと魔獣除けが動作を始めるのを待った。
二分ほど無言で待ち、焦れ始めた頃のことだった。
──トンッ
心臓を指で優しく弾くような感覚があった。
よかった。
そう口にしようとしたときだった。
ぎッ!
黒板を爪で引っ掻く音にも似た声が、騎竜車の真下から聞こえてきた。
「──…………」
「──……」
ヘレジナとアイコンタクトを行う。
朝の支度のときにまで武器を携えるほど、この周辺は危険な地域ではない。
騎竜車へ、たったの一瞬、一歩で乗り込むと、ヘレジナは無銘の双剣を手にプルとヤーエルヘルを庇うように立ち、俺は神剣を鞘ごと拾い上げて抜き放った。
──トンッ
次の振動が走る。
それは、騎竜車の下、つまり影から現れた。
神眼を発動する。
近くにあった別の影──木陰へと飛び出したそれを、神剣で叩き斬る。
手応えはない。
だが、それの正体を思い出すことはできた。
「──ヘレジナ、影の魔獣だ! 炎で焼き尽くせ!」
「相分かった!」
一瞬の、さらに刹那。
まばたきすら不可能な速度で距離を詰めたヘレジナが、神剣をぬるりと躱し、今に木陰に飛び込もうとする影の魔獣をその手で掴んだ。
「生憎と、火葬の用意しかなくてな」
そう告げた瞬間、ヘレジナの右手が燃え上がる。
閃光と炎に包まれた魔獣は、悲鳴すら漏らすことなくこの世から消え去った。
「──つッ! さすがに熱いな。師匠の真似事にはまだ早そうだ」
「ありゃ、竜の血が入ってるからだろ……」
呆れつつ、ヘレジナの右手を見る。
すこし赤くなり、一部は水ぶくれを起こしていたが、軽いやけどの範疇だろう。
「プル、ヘレジナの治癒を頼む」
「は、はあい……!」
駆け寄ってきたプルが、ヘレジナの右手に治癒術をかける。
「影の魔獣、でしか……?」
「ああ、前に話したろ。流転の森で二人が襲われて──」
ヤーエルヘルが頷く。
「はい、覚えてまし。こんなところにもいるものなんでしね……」
「近くに神代の遺跡でもあるのかもしれん。あるいは、ただのはぐれ魔獣であったか」
「──…………」
治癒術での治療を終えて、プルが沈思黙考する。
「どうした?」
「……その」
何かに気が付いたのか、プルの表情は不安げだった。
「い、……いつから。騎竜車の下に、い、いたのかな、……って……」
いつから。
それは当然、昨夜のうちに。
俺は、当たり前のようにそう考えていた。
だが、そうではなかったとしたら?
──脳裏で鳳仙花が弾けた。
「あ──」
可能性。
可能性だ。
あくまで可能性があるに過ぎない。
だが、俺の考えが真実であった場合、俺たちの置かれている状況は、そっくりそのまま引っ繰り返ってしまう。
「どうした、カタナ。呆けた顔をして」
「──前に話しただろ。このサンストプラでいちばん早い情報伝達手段は、鳩か飛竜便だって」
「確かに、話した記憶はあるが……」
ヘレジナが、それがどうしたとでも言いたげな表情を浮かべる。
「あれ、間違ってる。最速の通信手段が別に存在する。下手すりゃ俺の世界より優れた方法が」
「最速の通信手段、……だと?」
「ああ」
端末の必要もなく、距離をすら無視する通信手段。
それは、
「──魔獣とのリンク、だ」
「あ!」
ヤーエルヘルが、どんぐりまなこを見開いた。
「魔獣使いは距離を問わず同じ個体と精神的に繋がり続ける。ツィゴニアが、イオタを通して炎竜と繋がっていたように。仮に、今の魔獣が、流転の森でプルたちを狙った影の魔獣の生き残りだとしたら──」
「……私たちの居場所も、会話も、すべて筒抜けだったということになる」
「そん、……な!」
「もちろん、ただのはぐれ魔獣だって可能性もあるさ。でも、そうでない可能性もある。あの魔獣がパレ・ハラドナかパラキストリの魔獣使いのものである可能性が少しでもあるのなら、俺たちはそれを前提として動かなきゃならない」
俺は、スールゼンバッハの吊り橋の物語を思い出していた。
可能性が僅かでもある限り、俺たちはこのように行動するしかない。
「そう、……でしね」
ヤーエルヘルが、魔獣除けを抱き締める。
「ナナさんが、教えてくれたのかも……」
その言葉に、思わず笑みがこぼれる。
「そうだな。ナナイロのおかげだよ」
「──しかし、どうする。最終目的地がトレロ・マ・レボロのハルヴァであることは変えられん。もしやつらがその気であれば、ハルヴァに兵を置いておくのが常套であろう」
「そうだな。なら──」
【予定通りに進む】
【第八州バレボロを抜ける】
【さらに東へ向かう】
なら、せめて経路を変えよう。
そう口にしようとした瞬間、[星見台]の選択肢が現れた。
今回も、また、背中を押すと言うより選択を促しているかのようだ。
「……[星見台]が出た」
「で、出た! なん、……て?」
「予定通りに進むか、バレボロを通るか、さらに東へ向かうか──だとさ。どうする?」
ヤーエルヘルが、冷静に答える。
「三国街道のおかげで栄えている西バルパルディと違い、東バルパルディは丘陵を含む山地の面積が全体の半分以上を占めていて、山道を通らないのであればかなりの遠回りとなりまし。たぶん、第七州から第一州へ行くために、第四州と第三州を経由する必要があったかと……」
「とお、……い!」
「このルートを通る場合、トレロ・マ・レボロまで二十日間は見ておいたほうがいいでしね」
「現実的に言うなら、バレボロを通る経路か。西のほうから入れるなら、時間短縮にも繋がるだろ。ハウルマンバレ―の最東端からトレロ・マ・レボロに入ってハルヴァがどこか聞き込みしたら、今度はトレロ・マ・レボロの最西端にありました──なんてオチがあり得る」
「確かにその通りであるな……」
「い、行くしか、……ないね。バレボロ」
「……はい」
ヤーエルヘルが、郷愁とも不安ともつかない表情を浮かべる。
「──とにかく、朝メシ食いたいな。腹減ってるとアイディアも出ない」
「あ、ちょっと待ってて、……ね!」
プル謹製の食事は、いつも驚くほど美味い。
そして、豆醤を使わなくても郷愁を感じることがある。
もしかすると、俺の反応を見て、俺の好みを密かに探っているのかもしれない。
そうだとしたら、嬉しい。
朝食後、俺たちは次の町へと向けて騎竜車の手綱を取った。
背中から覆い被さろうとする、おぼろげな不安を感じながら。




