1/ハウルマンバレー -4 ヘレジナの過去
翌朝、ヤーエルヘルと同衾していたことで睨まれるなり冷やかされるなりするかと思いきや、二人の視線は優しいものだった。
プルも、ヘレジナも、ヤーエルヘルの心に刻まれた深い深い傷のことを汲み取り、彼女のことを気遣っているのだ。
それが、嬉しかった。
ハウルマンバレーへの道行きは、実に穏やかなものだった。
海沿いの街道は幅が広く、舗装こそされていないものの整備が行き届いており、さほど揺れることもない。
寄せては返す波に乱反射する太陽の光は、いくら見ても見飽きるということがなかった。
時折、小雨がぱらつくことはあっても、行きのようにひどく蒸すことはなく、のどかで快適な旅路が続く。
ヤーエルヘルは、すっかり独り寝ができなくなってしまい、その日の気分によって誰かのベッドに潜り込むのが常だった。
「──……ふー」
途中の町にあった大きめの宿で風呂だけを借り、騎竜車へと戻ってくる。
客車内にはヘレジナがいて、地図を床に広げていた。
「おお、カタナ。早いではないか」
「ヘレジナこそ早いじゃん。二人は?」
「女風呂が、入れて二人の広さだったものでな。プルさまとヤーエルヘルに先を譲り、私は騎竜車に戻ってきたのだ」
「ああ、まだ入ってないのか……」
「すまんな。多少待たせる」
「気にせず長風呂してこいよ。急ぐ旅路じゃあるまいし」
「ふふ、殊勝であるな。それでは、その言葉に甘えるとしよう」
俺が、客車内の壁に背を預け腰を下ろすと、地図を畳んだヘレジナが隣へやってきた。
そして、当然のように俺に頭を差し出す。
「では、いつものを所望するぞ」
「飽きないな……」
ヘレジナの頭に手を乗せ、手櫛で髪を梳くように優しく撫でていく。
「ハゲるまで撫でてやると言ったのはお前ではないか。私の毛根はまだまだ息災だぞ」
「……ヘレジナがこんな甘えっ子だって、あの二人が知ったらなんて言うかねえ」
「ふふん。もしバラしたらなますにしてくれるわ」
「こわ」
ごくたまに二人きりになったとき、彼女は俺に頭を撫でてほしいとせがむようになった。
大きなものに寄り添って、褒めてほしい。認めてほしい。甘やかしてほしい。
かつてプルが言っていた言葉の通りなのだろう。
「──こんなこと聞いていいのかわかんないけどさ」
「なんだ?」
しばし、質問の内容を吟味する。
「ヘレジナって、どんな子供だったんだ?」
もしかすると、親からの愛情に飢えていたのかもしれない。
安直だが、俺はそう考えていた。
「そうさな……」
言葉を探すように無言になったあと、ヘレジナがゆっくりと口を開いた。
「私は、エーデルマン家の次女でな。知っての通り快活で、頑丈で、頭が良くて愛くるしい子供であったとも」
「自分でそこまで言うか……」
だが、想像はつく。
風邪の一つも引いたことがない、と言うのも事実なのだろう。
「次女と言った通り、私には姉がいた。こちらはひどく病弱でな。治癒術は、病に対しては対症療法にしかならん。両親は姉の病を治そうと、多くの金を支払い、多くの時間を割き、多くの愛情を与え続けた」
ヘレジナが、自嘲するように微笑む。
「──恐らく、お前が思っている通りだ。私には、親からの愛情を十全に受けた記憶がない。全寮制のスクールに入れられて、家族と会うのは年に数度。どんなに優秀な成績を修めても、どんな賞を取ったとしても、両親は私に興味を向けてはくれなかった。真実、どうだったのかはわからん。だが、私はそう感じていた」
「そう、か……」
「そして、私が十三になったときだ」
目を伏せ、ヘレジナが意を決したように言った。
「──姉が、亡くなった」
「──…………」
「贖罪のつもりで、正直に言おう。私は嬉しかった。これで、両親の関心は私に向くと思った。両親の愛情を一身に浴びることができると思った。だが──」
ヘレジナが、俺を見上げる。
悲しげに。
切なげに。
「両親は、姉を追うように自殺していたよ。私を置いて、な」
「──…………」
俺の左手が、無意識に、強く、強く、握り込まれた。
「……悪い、一言いいか?」
「ああ」
「お前の両親、最低だな」
「──ははっ!」
ヘレジナが、愉快そうに笑う。
「ああ、そうだとも。私もそう思う。最低だ。だが、誰もそうは言ってくれなかった。同情しかくれなかった。お前だけだよ。私の立場に立って、両親に憤ってくれたのは……」
そう言って、ヘレジナが俺の肩に頭を預ける。
事情があったのだろう。
理由があったのだろう。
長女を失って、さぞつらかったのだろう。
だが、俺には、自分勝手で自己完結した悲劇の主人公気取りとしか思えなかった。
残されたヘレジナが、こうして苦しんでいるのだから。
「……以前に言ったろう。私が口調を変えたのは、〈強い私〉になるためだと」
「ああ」
「この口調は、私の好きな物語の主人公を模したものだった。その主人公の名は、わかるか?」
わかる気がした。
「──ルインライン=サディクル」
「ああ、その通りだ」
ヘレジナが微笑む。
「世界一の剣術士、ルインライン=サディクル。彼は、私の憧れだった。彼のように強ければ、悲しみも、苦しみも、心乱されることもないのだろうと思った。私は、パレ・ハラドナの皇都に住んでいたからな。時折は、彼の姿を目にすることがあった」
パレ・ハラドナ騎士団〈不夜の盾〉。
ルインラインは、その騎士団長だった。
「あれは、私が十八のときだったか。私の通っていたスクールに、たった一日だけ、彼が剣術を教えに訪れた。私は、剣術、魔術、座学のすべてに置いて、学年で主席を取っていた。恥も外聞もなく、彼に頭を下げたよ。弟子にしてほしいとな。彼は、困ったように片眉を上げて、言った」
ヘレジナが、声を低くする。
ルインラインの真似らしい。
「〈諦めろ。優等生は、強くはなれん〉」
「似てないな」
「うるさいぞ」
苦笑し、ヘレジナが続ける。
「──今ならば、その意味がわかる。渇望は欠落によって生まれる。何もかも満たされた優等生に、それはない。だが、そのときの私は、彼の言葉を真正面から受け止めてしまってな。それから二年、すべてのテストを拒否し、学校一の劣等生となった」
「極端だな、おい」
「結果、スクールは卒業できず、除籍となった。その足で彼の元へと急いだよ。もう、優等生なんかではないとな」
「ルインライン、さぞ困ったろうな」
「まさしく、困った顔をしておったよ。だが、そんな私に興味を抱いてくれたのは確かだった。彼は、私を弟子に取り立ててくれた。ルインライン=サディクルは、その日から私の師匠となった。師匠の人生で、唯一の弟子であったらしい。光栄だな」
「そっか」
ルインラインがヘレジナを褒めなかったのは、認めなかったのは、欠落したままのほうが強くなれるからだろう。
人は、埋めがたいものを埋めるために努力を重ねるものだから。
「──…………」
俺は、もしかすると、ヘレジナを弱くしているのではないだろうか。
彼女を満たし、強さへの渇望を失わせているのではないだろうか。
そんな考えが脳裏をよぎった。
不意に、ヘレジナが身を離す。
理由はすぐにわかった。
「た、ただいまー……」
「ただいま戻りました!」
髪をしっとりと濡らした二人が、騎竜車へと乗り込んでくる。
「プルさま。ヤーエルヘル。湯加減はいかがでしたか?」
「ちょっと、ぬ、ぬるかったけど、それがよかった、……かも」
「長く、のーんびり浸かれましたから!」
「なるほど。沸騰術で温めることはできても、冷ますのはなかなか難しい。私も、そのぬるさを楽しんでくるとしましょう」
何事もなかったように立ち上がり、ヘレジナが騎竜車を出て行く。
その際、一瞬だけ、俺の顔を見て微笑んだ。
「カタナさん。ヘレジナさんとなに話してたんでし?」
「ああ。ヘレジナの昔話を、ちょっとな」
「──…………」
プルが、そっと目を伏せる。
ヘレジナはプルの従者だ。
彼女がヘレジナの過去を知らないはずがない。
「……?」
ヤーエルヘルが、不思議そうに小首をかしげた。




