第9話――嵐の中の剣と、謎の少女の歌
夜明け前、戦場に角笛が鳴り響いた。
一度。
二度。
三度。
長く伸びたその音が、アリア王国の防衛線全体へと響き渡る。
野営地で休んでいた兵士たちが、一斉に起き上がった。
慌ただしく駆け回る足音。
急いで鎧を身につける音。
鞘から抜かれる剣。
弓兵たちは弦を確かめ、魔術師たちはマナを集め始める。
誰も「勝利」という言葉を口にしなかった。
誰もが分かっている。
今日という日が終わる頃には――
自分たちは、もう夕日を見ることができないかもしれない。
戦場の上空は、分厚い雲に覆われた灰色の空だった。
低い霧が地面を這っている。
そして、その霧の向こうから――
敵軍が姿を現した。
ドン。
ドン。
ドン。
数千もの足音が重なり、大地を震わせる。
黒い戦旗が、霧の向こうからゆっくりと姿を現した。
続いて見えてきたのは、盾を構えた兵士たち。
槍兵。
剣士。
弓兵。
そして魔術師。
カーレルは最前線に立っていた。
銀色の鎧が、薄暗い空の光をわずかに反射している。
右手で剣を強く握りしめていた。
その表情は静かだった。
だが、彼自身も分かっている。
これから起こることのすべてを、自分が思い通りにできるわけではない。
「殿下」
一人の士官が駆け寄ってきた。
「中央隊、準備は整っております」
カーレルは頷いた。
「左翼は?」
「まだわずかに隙間がございますが、現在増援を送っております」
「後方は?」
「魔術師たちが防御魔法の準備を進めております」
カーレルは戦場を見渡した。
「よし」
一度、ゆっくりと息を吸う。
そして――
「ここを、決して通すな」
その直後。
敵陣からも角笛が鳴り響いた。
一度。
次の瞬間、数千もの兵士たちが一斉に叫んだ。
「突撃ィィィィッ!」
両軍が同時に駆け出した。
大地が震える。
弓兵たちが、一斉に矢を放った。
ヒュオオオオッ!
数百本もの矢が空へと舞い上がり――
黒い雨となって降り注ぐ。
「盾を上げろ!」
アリア兵たちが一斉に盾を構えた。
ザッ!
ザッ!
ザッ!
矢が盾や鎧に突き刺さる。
一人の兵士が、ほんの一瞬だけ盾を上げるのが遅れた。
矢が胸の中央を貫く。
彼はその場に倒れた。
「来るぞ!」
敵軍が最前線へと激突する。
ガキン!
ガキン!
ガキン!
金属同士がぶつかり合う音が、戦場のすべてをかき消していく。
カーレルが一歩踏み込んだ。
剣を振り下ろす。
目の前の敵兵が倒れる。
身を翻す。
槍をかわす。
剣の腹で別の一撃を弾く。
踏み込む。
もう一度、斬る。
血が銀色の鎧へ飛び散った。
横から別の敵兵が飛び込んでくる。
カーレルは身体をわずかに傾けてかわした。
刃が頬を掠める。
肘を叩き込み、相手の顔を打ち抜く。
そのまま剣を振り抜き、胴を斬り裂いた。
だが、一人が倒れた瞬間――
三人目が来る。
四人目。
五人目。
カーレルは一歩後退した。
剣の動きがさらに速くなる。
身体は、まるで次にどこから攻撃が来るのかを知っているかのように、敵の刃と刃の間をすり抜けていく。
だが、戦場は息をつく時間すら与えてくれない。
ドォン!
左方で魔法が炸裂した。
凄まじい衝撃が、何人もの兵士をそれぞれ別の方向へ吹き飛ばす。
一人は魔法の爆発に巻き込まれ、人の姿すら残さず吹き飛んだ。
もう一人は、まだ生きていた。
下半身を失った身体を地面の上で激しく痙攣させながら、絶叫する。
「助けてくれ! 誰か、助けてくれ!」
だが、誰も答えられない。
敵が迫っているからだ。
その時――
巨大な火炎魔法が飛来した。
カーレルが振り向き、左手を掲げる。
マナが身体から一気に流れ出した。
目の前の大地が激しく震える。
大量の土と岩が地面から持ち上がり、数メートルもの高さを持つ巨大な壁へと形を変えていく。
それが敵の魔法の進路を塞ぐように、一気にせり上がった。
ドォォォン!
巨大な火炎魔法が、岩壁へ激突する。
本来ならアリア兵たちへ一直線に向かうはずだった炎が、岩壁に弾かれて横へと逸れる。
爆発の衝撃が大きく広がり、その一部が炎の奔流となって敵陣へ逆流した。
「うわああああっ!」
敵兵たちが炎に飲み込まれ、吹き飛ばされていく。
カーレルは、その隙を逃さなかった。
「今だ!」
彼は一気に駆け出した。
剣が敵陣の隙間を縫うように走る。
一人。
二人。
三人。
そして、そのまま土壁の上へと跳び上がる。
眼前には――
敵軍が地平線を埋め尽くしていた。
カーレルは空へ向かって左手を掲げる。
莫大な量のマナが、彼の身体から溢れ出していく。
頭の中に、魔法の構造を組み上げる。
周囲の戦闘音が、次第に風の音にかき消されていく。
砂埃と霧が、戦場から一気に吹き払われる。
両軍の兵士たちが、何かに気づいたように動きを止め始めた。
さっきまで灰色だった空が――
今は、ほとんど光さえ残らないほど暗くなっていた。
カーレルはゆっくりと顔を上げる。
そして、その瞬間――
最初の雷が落ちた。
バァァァンッ!
大地が引き裂かれる。
二本。
三本。
十本。
数十本もの雷が、次々と戦場へ降り注いだ。
敵兵たちが一斉に散り散りになる。
爆風に吹き飛ばされる者。
その場に倒れる者。
恐怖に叫び声を上げる者。
「退けぇ!」
「この場所から離れろ!」
だが、混乱によって敵軍の隊列は瞬く間に崩れていく。
戦線がいくつもの場所で分断された。
それを見たアリア兵たちが、一斉に声を上げる。
「攻めろ!」
兵士たちが一気に前へ出る。
カーレルも土壁から飛び降りた。
その身体が戦場を駆け抜ける。
敵の盾を剣で斬り裂く。
盾が砕ける。
敵兵が後退する。
カーレルが追い込む。
だが――
カーレルは一歩、踏み込んだ。
その瞬間、鉄のブーツが血と泥の混じった水溜まりの上で滑った。
ほんの一瞬。
身体の重心が崩れる。
そして――
戦場にとって、それだけで十分だった。
ズブッ!
一本の槍が鎧の隙間を突き抜け、脇腹へ深々と突き刺さった。
カーレルの身体が止まる。
息が詰まった。
濃い血が傷口から一気に溢れ出し、銀色の鎧を赤く染めていく。
敵の顔を睨みつける時間すらない。
カーレルは歯を食いしばり、左手で槍の柄を掴む。
身体を捻り――
力任せに引き抜いた。
血がさらに溢れ出す。
それでも、彼は立っていた。
残った力を振り絞り、剣を振り抜く。
敵兵は血溜まりの中へと倒れた。
カーレルはすぐさま傷口を手で押さえる。
荒い呼吸が漏れる。
右手の剣が、突然ひどく重く感じられた。
周囲の戦闘音が、まるで水の底から聞こえてくるように遠のいていく。
身体の中のマナも、ほとんど枯れ果てていた。
しばらくは、もう魔法を使うことすらできない。
だが、前方では――
戦線が崩れ始めていた。
カーレルは顔を上げる。
「全員! 隊列を立て直せ!」
彼の声が戦場を貫く。
「追うな! 戻れ!」
だが、一部の兵士たちは退く敵を追い、そのまま深く入り込みすぎてしまった。
彼らは退く敵を追い、そのまま深く入り込みすぎてしまう。
「戻れ!」
カーレルが再び叫ぶ。
だが、遅かった。
敵陣後方から、大量の魔法が放たれる。
ドォン!
ドォン!
ドォン!
追撃していたアリア兵たちが、爆炎の中へと飲み込まれていく。
悲鳴が上がった。
「助けてくれ!」
「母さん……」
「死にたくない……」
最後の声は、黒煙の中へと消えていった。
カーレルは剣を強く握りしめた。
目の前で死んでいった兵士たちの残骸を見つめる。
脇腹から流れた血が、焼け焦げた大地へと落ちていく。
――これが戦争だ。
彼には、すべての人を救うことなどできない。
カーレルは目を閉じた。
生き残った兵士たちの呻き声が響く戦場で――
ただ願うことしかできなかった。
この者たちの死が、無駄なものにならないことを。
その直後だった。
極限状態で張り詰めていた神経が、少しずつ緩み始める。
槍に貫かれた傷の痛みが、一気に全身へと押し寄せた。
身体が痺れる。
右手の力が抜ける。
剣が手から滑り落ちた。
カーレルの身体が大きくよろめく。
そのまま倒れかけた――
「殿下!!」
側近の士官が、粉塵と煙の中を駆け抜けてきた。
間一髪でカーレルの身体を支える。
カーレルは重い瞼を無理やり開いた。
何か命令を出そうとして、口を開く。
「陣……を……。あいつらを……」
「殿下、出血が多すぎます!」
「後退を! 殿下をすぐに治療班へ運べ!!」
周囲の兵士たちの声が、次第に遠ざかっていく。
灰色の空が視界に映る。
それも少しずつ、暗闇に飲み込まれていった。
そして――
カーレルの意識は、途切れた。
⸻
数日後。
アリア王国の王宮には、前線から絶え間なく報告が届いていた。
ここ数日の間に、報告の数はさらに増えていた。
負傷兵が王都へと送られてくる。
行方不明になった兵士もいる。
前線への攻撃は激しさを増していた。
そして、直近の戦闘によって多数の死者が出たという報告も届いていた。
リゼルは自室で報告書を読んでいた。
最後まで読み終えた。
そして、静かに紙を置いた。
そこに並んでいるのは――
死者。
重傷者。
行方不明者。
そんな言葉ばかりだった。
けれど、そこには名前がない。
顔もない。
叫び声もない。
あるのは、数字だけ。
リゼルはしばらく黙って座っていた。
やがて立ち上がる。
「アレン」
「はい」
アレンが振り返る。
「わたくしを、外へ連れて行ってもらえますか?」
「王宮の外へ、ですか?」
「ええ」
アレンは不思議そうに彼女を見る。
リゼルは報告書を手に取った。
「前線からの知らせは、毎日のように届いています」
ゆっくりと言葉を続ける。
「けれど、わたくしが知っている戦争は、紙の上にしかありませんわ」
報告書へ目を落とす。
「負傷者の数は知っていても……その人たちがどんな姿をしているのか、わたくしは知りません」
「『死亡』という言葉は見ても――その言葉の向こうにいる人の家族を、わたくしは見たことがありません」
リゼルは少し黙った。
「わたくしの歌が、本当に人々に力を与えるものだというのなら……まずは、彼らが何に苦しんでいるのかを、この目で確かめるべきだと思いますの」
アレンは何も言わずに頷いた。
「はい」
リゼルはギターへ目を向ける。
「アレン、わたくしのギターもお願いできますか?」
「承知しました」
アレンは革製の楽器ケースを手に取った。
中にはリゼルのギターが収められている。
彼はそれを背負う。
「準備できました」
リゼルは頷いた。
「それでは、行きましょう」
⸻
午後。
二人は普段とは違う、質素な服装で王宮を出た。
リゼルは頭から暗い色のフードを被っている。
アレンも一人の青年にしか見えないような服装をしていた。
王家の紋章もない。
護衛もいない。
馬車もない。
二人の中に王族がいるなど、知る者は誰もいなかった。
二人は王宮の敷地を抜けていく。
そして負傷兵の治療所へ近づくにつれ――
ある匂いが、少しずつ強くなってきた。
薬草の匂い。
血の匂い。
煙の匂い。
そして、傷を治すポーションの匂い。
リゼルが足を止めた。
無意識に息を吸い込む。
そして、その表情が変わった。
この匂い――
どうして、こんなにも懐かしいのだろう。
鼻を刺すような、清潔な消毒薬の匂い。
アルコールの匂い。
前世の病院の廊下に漂っていた匂い。
あの頃、何度も嗅いだ匂いだった。
ベッド。
注射器。
薬。
医療器具。
そして――
心拍計の音。
ピッ……ピッ……
リゼルは立ち止まった。
手が冷たくなる。
「殿下?」
アレンが振り返る。
リゼルは慌てて息を吸った。
「……大丈夫ですわ」
けれど、本当は大丈夫ではなかった。
この匂いのせいで――
まるで、もう一度あの病院のベッドへ戻ってしまったような感覚に襲われる。
今の身体は、こんなにも健康なのに。
たった一つの匂いだけで――
前世の記憶が、胸を締めつける。
リゼルは服の裾を強く握った。
そして、無理やり歩き出す。
治療所へ入った瞬間――
リゼルは、なぜ前線からの報告だけでは戦争の本当の姿を知ることができないのかを理解した。
数え切れないほどのテントが並んでいる。
兵士たちが絶えず行き来している。
医師や治癒魔術師たちが走り回っている。
水桶には血に染まった包帯が溜められている。
そこかしこから、苦痛に呻く声が聞こえてくる。
「医師! こっちだ!」
「血が止まらない!」
「ポーションを追加で持ってこい!」
「この人、意識がありません!」
「持ち上げろ! 早く!」
リゼルの足が、自然と遅くなる。
一人の男が、全身を包帯で覆われた状態でベッドに横たわっていた。
別のベッドには、片腕を失った男がいる。
少し離れた場所では、一人の若い兵士が膝を抱えて座り込み、身体を震わせていた。
彼は何かを繰り返し呟いている。
「俺のせいじゃない……俺のせいじゃない……」
一人の老婆が、前線から戻ってきた兵士へ問いかけている。
「息子はどこにいるんですか」
兵士は黙った。
老婆は彼の顔を見る。
「……まだ、生きているんでしょう?」
兵士は目を逸らした。
老婆の身体から力が抜け、その場に崩れ落ちる。
泣き声が響いた。
リゼルは立ち尽くした。
戦争とは、兵士たちが戦うものだと思っていた。
けれど今、初めて分かった。
戦争は、剣が止まれば終わるものではない。
兵士たちと一緒に帰ってくる。
傷の中に。
記憶の中に。
帰りを待つ家族の中に。
そして――
明日も生きたいのかどうかさえ分からなくなった人々の中に。
リゼルは、アレンの背にあるギターケースへ目を向けた。
「アレン」
「はい」
「……一曲、弾きたいですわ」
アレンは頷いた。
彼はギターケースを下ろし、蓋を開く。
周囲の人々がこちらを見始めた。
誰も、この楽器が何なのか知らない。
誰も、彼女が何者なのか知らない。
ただ一人の謎めいた少女が、見たこともない奇妙な楽器を抱え、負傷兵たちのいる場所へ腰を下ろした。
リゼルはギターを膝に置く。
指先を弦に触れさせる。
最初の音が、静かに響いた。
負傷者たちの呻き声が響く場所で。
その音は、とても小さかった。
周囲の音にかき消されてしまいそうなほどに。
けれど、リゼルはそのまま弾き続けた。
そして、歌い始める。
それは、戦場へ向かう兵士たちを鼓舞する行進曲ではなかった。
神へ捧げる讃美歌でもない。
ただ――
泣いている誰かの背中を、そっと撫でる手のような。
そんな優しい旋律だった。
片腕を失った男が、黙ってその歌を聴いている。
息子を案じていた女性が、ほんの一瞬だけ泣くのをやめる。
父親の手を握っていた少年が、顔を上げる。
そして、前線から戻ってきた兵士たちさえ、足を止めて耳を傾けていた。
やがて、曲が終わる。
誰も拍手をしなかった。
どうすればいいのか、誰にも分からなかったからだ。
けれど――
しばらくして、一人の女性が小さく呟いた。
「……ありがとう」
リゼルは彼女を見る。
「ええ」
それだけだった。
奇跡は起きない。
傷が癒えることもない。
死者が蘇ることもない。
戦争も、まだ終わってはいない。
それでも、ほんのわずかな時間だけ――
この場所にいる人々は、泣くのをやめることができた。
恐怖を忘れることができた。
そして、静かに息をすることができた。
リゼルは周囲を見渡す。
初めて人々の前で歌った時、彼女は思っていた。
歌には、人を救う力があるのだと。
けれど今日、ようやく分かった。
誰かを救うということは――
必ずしも、その人の痛みを消してあげることではない。
痛みを抱えているその人のそばにいて、
その人が一人で苦しみと向き合わなくてもいいのだと、伝えること。
そして、もう一日だけでも生きてみようと思えるようにすることなのかもしれない。
アレンは彼女の隣に立っていた。
彼は治療所にいる人々を見渡し、それからリゼルへ視線を向ける。
その時、彼も初めて理解した。
自分たちの音楽は、ただ人に聴いてもらうためだけにあるのではない。
もしかするとそれは――
誰かが、この夜を越えていくための、
小さな支えになれるのかもしれない。




