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第10話――傷跡に響く声と、名もなき新たな歌

夜が再びアリア王国を包み込んでいた。

野戦医療所を出たリゼルとアレンは、言葉を交わすことなく王宮へと戻っていた。アレンは今もギターケースを背負っている。

一方のリゼルは俯いたまま、一言も口にしなかった。

帰り道、野戦医療所で見た光景が、頭から離れない。

鼻の奥に残る血と消毒薬の匂い。

身体の一部を失った兵士たちの顔。

苦痛に呻く声。

二人が西棟の物置部屋へ戻ると、魔法のランプが室内を照らしていた。

ライラとエリアスは、練習のための楽器を準備しているところだった。

扉が開くと、二人が同時に振り向く。

ライラはすぐに椅子から立ち上がった。

「リゼル様、どちらへ行かれていたのですか?」

エリアスも眼鏡を押し上げる。

「私も心配しておりました。王宮内が大変な騒ぎになっております」

リゼルが足を止める。

「騒ぎ……? 何があったのですか?」

エリアスとライラが顔を見合わせる。

やがて、ライラが小さな声で答えた。

「……前線から緊急の報告が届きました。カーレル殿下が重傷を負われて、つい先ほど王立医療施設へ搬送されたそうです」

リゼルの心臓が、大きく跳ねた。

今朝読んだ負傷者の数が記された報告書。

そこに、兄の名前が重なった。

アレンが一歩前へ出る。

「殿下の容体は?」

「王宮医師によれば、峠は越えたそうです。ただ……まだ意識が戻っていません」

静寂が部屋を覆った。

リゼルは強く拳を握りしめる。

戦争は、もう紙の上に記された数字だけのものではない。

それは今、彼女の家族にまで迫ってきていた。

リゼルは部屋の中へ歩き、いつもの椅子に腰を下ろした。

アレンはギターケースを彼女の隣へ静かに置く。

「……自分の目で確かめたかったんです」

沈黙を破るように、アレンが口を開いた。

「私たちは、先ほど野戦医療所へ行っていました」

ライラが目を見開く。

「野戦医療所……? どうしてリゼル様がそこへ?」

リゼルは答えた。

「わたくしが歌によって、本当に人々に力を与えたいのなら……わたくしは、まず彼らが何に苦しんでいるのかを知らなければならないと思ったのです」

その声は揺れていなかった。

けれど、そこには今までになかった重さがあった。

「わたくしは、音楽というものが心を癒やす魔法なのだと思っていました。ただ奏でれば、人々の悲しみも和らぐのだと」

リゼルは自分の手のひらへ視線を落とす。

「でも今日、初めて分かりました。……そんな簡単なものではなかったのです」

「わたくしの歌では、誰かの命を救うことはできません。彼らの傷は残ったまま。失ったものも、戻ってはきません」

誰も口を挟まなかった。

「それでも……わたくしが歌ったとき、泣くのをやめた人がいました」

エリアスがリゼルを見る。

「それは……どういう意味でしょうか?」

「わたくしは、彼らの痛みを消したわけではありません。ただ、歌が流れている間だけ……目の前にあるものから、ほんの少しだけ離れることができたのだと思います」

リゼルは静かに息を吸った。

「そして……自分は、その暗闇の中に一人でいるわけではない。そう感じてもらえたのではないでしょうか」

しばしの沈黙の後、リゼルは続けた。

「わたくしたちは、音楽というものを、どこか一つの場所で奏でて……そこを通りかかった人が聴いてくれるものだと思っていました」

彼女は、バンドの仲間たちを見渡す。

「でも今日、考えが変わりました」

「もう、誰かがわたくしたちのところへ来てくれるのを待つ必要はないのです」

リゼルの声に、静かな決意が宿る。

「彼らが自分の足で歩くことさえできないのなら……わたくしたちのほうから、この歌を届けに行けばいいのです」

エリアスはしばらく黙り込んだ。

やがて、眼鏡の奥の瞳が輝き始める。

「つまり、もしマナの波長を調整して、楽器の音をより遠くまで届け、さらに広範囲へ――」

「エリアス」

ライラがすぐさま彼をたしなめた。

「まだリゼル様がお話し終えたばかりですよ」

「私は、ただその発想をさらに発展させようと……」

「考えるのが早すぎます!」

リゼルは思わず小さく笑った。

張り詰めていた空気が、いつものやり取りによってほんの少しだけ和らいだ。

アレンもその様子を見ながら口を開く。

「でも、私はリゼル様の考えに賛成です」

リゼルが彼を見る。

「野戦医療所にいたとき、たくさんの人を見ました。目の焦点が合わなくて、話す力すら残っていない人たちもいました」

アレンはまっすぐにリゼルを見つめた。

「でも、リゼル様が歌い始めた瞬間、みんながこちらを向いてくれた」

「私は……それだけでも、十分な意味があると思います」

リゼルは、ほんの少しだけ微笑んだ。

「……そうであれば、嬉しいです」

そのとき、廊下から足音が聞こえてきた。

ほどなくして扉が開く。

そこに現れたのは、いつもより簡素な王族の衣装をまとった女性だった。

エララ。

アリア王国の女王である彼女の顔には、明らかな疲労の色が浮かんでいた。

全員が慌てて立ち上がる。

「お目にかかれて光栄です」

「ご機嫌麗しゅうございます」

リゼルはエララのもとへ歩み寄った。

「母様……カーレル兄様は、どうなのですか?」

エララは不安を隠すように、薄く微笑んだ。

「心配しなくていいわ。王宮医師が付きっきりで診てくれているもの。あの子は、見た目よりずっと強いのよ」

女王は小さく息を吐き、リゼルへ視線を向けた。

「それより……衛兵から聞いたわ。リゼルによく似た娘が、王宮を抜け出して野戦医療所へ向かったそう」

リゼルの身体が強張る。

そして、少しだけ俯いた。

「……はい。勝手なことをしてしまい、申し訳ありません」

「叱るために来たわけではないわ」

エララはそう言うと、椅子へ腰を下ろした。

「このような状況だからこそ、自分の目で現実を見ることは……王位を継ぐ者として必要なことなのだと思うわ」

そして、娘の顔を見つめる。

「母が知りたいのは、あの場所を見てきたあなたが……何を思ったのかということよ」

その問いに、リゼルは黙り込んだ。

もし以前の自分なら、音楽こそが人々を癒やす唯一のものだと思っていたかもしれない。

けれど今、彼女の頭に浮かんでいるのは、戦争という冷たい現実だった。

「もう、歌だけで誰かの痛みを消すことはできないと思っています」

リゼルは正直に答えた。

「でも……誰かにとって、苦しい夜を少しだけ楽に過ごすための力にはなれるのではないかと思います」

彼女はギターの弦へ手を添える。

「わたくしが歌っている間も、みんなの傷は残ったままでした。でも、歌が流れている間だけは……少しだけ息をつくことができた」

「だから、わたくしは……もっと遠くまで、歌を届けたいのです」

エララは、優しい眼差しで娘を見つめた。

「……まるで、母様があなたに歌って聞かせていた子守歌のようね。今のあなたは、その旋律を覚えていないかもしれないけれど」

リゼルは、はっとした。

エララが口にした子守歌を、彼女は覚えていない。

忘れたわけではない。

この身体の中で、かつて「リク」だった記憶が目覚めてから、まだそれほど長くはないのだから。

けれど――

「母の歌」という言葉が、別の世界の記憶を呼び起こした。

暗い夜。

病院のベッド。

息をすることさえ苦しかった身体。

そして、静まり返った病室で、母が流してくれた歌。

世界も違う。

母も違う。

それでも、そこから受け取った温もりだけは、不思議なほど同じだった。

あの頃の自分は、いつか楽器を手にして、その気持ちを誰かへ届ける側になるなんて考えもしなかった。

「……はい」

リゼルは心から微笑んだ。

「わたくしも……あの歌のように、人を包み込める歌を奏でたいです」

エララはそっと手を伸ばし、娘の頭を撫でる。

「それなら、続けなさい。あなたがそうしたいと思う限り、母様は止めないわ」

「本当ですか?」

「ええ、本当よ」

エララは小さく笑った。

その瞳には、まだ悲しみが残っている。

「ただし、一つだけ条件があります」

「条件……ですか?」

「次に王宮の外へ出るときは、せめて母様には先に知らせること」

リゼルはエララの手をそっと握った。

「……はい。約束します」

アレンは二人の姿を、微笑ましそうに見つめていた。

ライラは目尻に浮かんだ涙をそっと拭う。

一方、エリアスは真剣な顔で頷いた。

「最も合理的な提案かと存じます」

リゼルが研究者へ視線を向ける。

「エリアス、何でも補足しなくていいのですよ」

「私は事実を確認しただけでございます」

小さな笑い声が、部屋の中に広がった。

重く沈んでいた空気が、ほんの少しだけ明るくなる。

やがて、エララが立ち上がった。

「母様はもう邪魔をしないわ。カーレルの様子を見に戻ることにするわね」

扉まで歩いたところで、エララは立ち止まり、振り返った。

「リゼル」

「はい?」

「あなたなら、望むままに新しい音を紡ぐことができるのでしょうね」

エララは優しく微笑む。

「誰か一人の痛みを包み込む歌を作ってもいい。誰かの恐怖を追い払うために、笑い声を生む音を作ってもいい」

「あるいは……もっと多くの人が、寄りかかることのできる何かを作ってもいい」

「あなたが望むままに……あなた自身の響きを、奏でなさい」

女王が部屋を出ていく。

扉が閉まると、再び静寂が訪れた。

リゼルはしばらく閉じた扉を見つめていた。

そして、ゆっくりと仲間たちへ振り返る。

「……自分自身の音、ということですね」

ライラが満面の笑みを浮かべた。

「リゼル様には、もうちゃんとご自身の音がありますよ」

アレンも頷く。

「私も、そう思います」

するとエリアスがノートとペンを取り出した。

「それでは、まずはリゼル様が伝えたい感情の構造に適合する、リズムと音波の組み合わせを計算するところから――」

リゼルは目を細めて彼を見る。

「エリアス」

「はい」

「また複雑な仕事を始めようとしていませんか?」

「……はい」

ライラが声を上げて笑った。

リゼルも、思わず微笑む。

彼女はギターを手に取り、肩へ掛けた。

今度は観客もいない。

豪華な舞台もない。

拍手もない。

そこにいるのは、古びた物置部屋に集まった四人だけ。

それでもリゼルは思った。

自分たちが今ここで始めようとしているものは、少しずつ、この世界を変えていくのかもしれない。

自分自身を癒やすために生まれた歌は、今――

人々の傷を包み込むための音へと変わろうとしていた。

リゼルは弦に指を置く。

そして、最初の音を奏でた。

澄んだ音色が、静かな部屋へと広がっていく。

ライラがゆっくりとベースを肩に掛ける。

アレンはドラムスティックを回し、定位置へ向かった。

エリアスはキーボードへ手を置く。

誰も、もう言葉を口にしなかった。

なぜなら今、彼らが始めようとしているのは、これまで演奏してきた曲の練習ではない。

彼らは、新しい音を探している。

彼らが出会った人々の物語を語るための音。

寒さに震える者の音。

大切なものを失った者の音。

そして、行く先に光が見えなくても、それでも前へ進もうとする者の音。

リゼルは目を閉じた。

そして、新たな旋律を奏で始める。

西棟の物置部屋に、再び四人の音楽が響き渡った。

この歌が何と呼ばれることになるのか、誰にも分からない。

どこで演奏されることになるのかも、まだ分からない。

ただ、四人には分かっていた。

――この世界に聴かせたい歌は、まだいくつも残されている。


翌朝、リゼルはアルドリック王に呼び出されていた。

「リゼル。近いうちに、お前には王都を離れてもらいたい」

「わたくしが……王都を離れるのですか?」

「そうだ。お前に行ってもらいたい場所がある」


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